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松島トモ子、母の介護のストレスでパニック障害に。「どうしたら良いかわかりませんでした」

©テレビ朝日

1986年、41歳のときにテレビの仕事で訪れたケニアで、ライオンとヒョウに襲われながらも奇跡的に命を取り留め、第4頸椎粉砕骨折という重傷を負いながらも撮影をすべて終えてから帰国した松島トモ子さん。

小さい頃から母・志奈枝さんに「一度引き受けた仕事は最後までやりなさい」と言われていたため、いかなる状況でも仕事を途中で放り出したことはなかったと話す。4歳でデビューして以来、常にそばにいて、松島さんを支え続けてくれた母・志奈枝さんに突然、異変が訪れたのは2016年のことだった。

©テレビ朝日

◆ショック!母が突然、失禁したり、夜中に「逃走」したり…

松島さんが3歳で阪東妻三郎さんにスカウトされたとき、芸能界入りは反対だったものの、いつも一緒にいることができるということでデビューを認め、常にそばにいて支え続けてきた母・志奈枝さん。いつも朝からきちんとお化粧をして、言葉遣いも上品でおしゃれな志奈枝さんが認知症に。松島さんの憧れの存在だっただけにショックは大きかったという。

-最初はどのような感じだったのですか-

「3年前(2016年)の春、母が転んで左腕を骨折したんですけど、ギプスをはさみで切ってはずしてしまって病院で再装着してもらうことが何度もあったんです。

それで家中のはさみを隠したら、今度は包丁でギプスを切ろうとしたので、慌てて止めたんですけど。

母は私の仕事のサポートを唯一の生きがいとしていたのに、それを邪魔するなんて…。1日に2回、病院に付き添って行ったこともありました」

-そのときには病気(認知症)だとは思わなかったのですか?-

「思いませんでした。母はおしゃれな人なので、ギプスをつけた姿がいやなんだろうなって。冷静に考えたら明らかにおかしいんですけど、私自身がそれを認めたくなかったのかもしれないわね。

長年一緒に暮らしてきたけど、それまで母は一度も老いを感じさせることはなかったですから。からだは健康だったし、頭の回転も速く、言葉遣いや立ち居振る舞いも美しくて」

-お母様はお嬢様だったそうですね-

「はい。母は本物のお嬢様でした。大きなお屋敷で育って、お手伝いさんも何人も付いていたし、中国料理、フランス料理、日本料理、それぞれのコックさんがいました。18歳のときには香港のペニンシュラホテルのローズルームで社交界にもデビューしましたしね。いつもきちんとしていておしゃれで、家にいるときでも、朝、昼、晩と着替えていました」

そんな志奈枝さんの異変を認めざる得ないショックな出来事が起きたのは、親しい人たちに囲まれた95歳の誕生会。好奇心旺盛で人の話を聞くことが大好きな志奈枝さんが、都内の中国料理店に集まってくれた人たちの話に無反応で、ただ黙々と食べ続けるばかりだったという。

「まるで別人のようだったので心配になって、『人の話を聞きましょうね』というつもりでスカートに手をかけたら失禁していました。あまりにショックで、どうしたら良いかわかりませんでした。

この日を境に夜になると『軍服の兵隊が見える』とか『戦車が来た!』と言ってお風呂場から飛び出して来たり、罵詈雑言(ばりぞうごん)が飛び出すようになって…。

母は旧満州(現・中国東北部)で父と生き別れ、『戦時中、ソ連軍の戦車が列をなして侵入して来て怖かった』と話していたので、その記憶が幻視として現れていたみたいです」

-徘徊(はいかい)することもあったそうですね-

「夜中、外に出て行ってしまうこともあったんですけど、母は健脚なので『徘徊』というよりも『逃走』という感じだったので、追いかけるのが大変でした。

私が一生懸命走ってもなかなか追いつかないんですよ。だから、母の寝室の入り口に布団を敷いて、外出着のままで寝たりしていましたね」

©テレビ朝日

◆70歳で始めた家事…介護のストレスで自身もパニック障害に

上品で美しく凛とした志奈枝さんが変わっていく姿は松島さんにとってあまりにもショックで受け入れがたいものだったという。

「他人の悪口なんて言ったこともない母が罵詈雑言を吐きながら、手当たり次第に椅子や家具を倒して暴れまわっているわけですからね。地獄のようでした。

それまで見たことのない母の姿を見てあまりにショックで、親子心中を考えたこともあったくらいです。本当に私の方が壊れてしまいそうでした」

-介護認定などは?-

「調査員の方が来ると、母はシャンとして『家事も全部できるので大丈夫です』ってウソを言っちゃうんですよ。それで調査員の方にこっそり深刻な状態であることを言おうとしたんですけど、母が私のそばを離れないのでそれもできず、そのときには『要介護1』という最も軽い認定になってしまいました」

松島さんが仕事に専念できるようにと、お手伝いさんはいたが、家事はすべて志奈枝さんが行い、70歳になるまでお湯を沸かしたこともなかったという松島さん。

志奈枝さんを自宅で介護することにした松島さんにとって、料理、掃除など家事もすべて初めてのこと。慣れない家事に戸惑い、悪戦苦闘の日々だったという。施設への入居もすすめられたが、松島さんは在宅介護を続けることにしたと話す。

-慣れない介護生活で松島さんご自身も体調を崩されたそうですね-

「過度のストレスで4年前にパニック障害と過呼吸になってしまいました。何に対しても、ものすごい反応を起こして、本当にパニックになってしまうんです。めまい、吐き気、動悸、息切れなどの症状が突然現れるようになってしまって…」

-どんなときに症状が出るのですか-

「いつそうなるかわからないんです。タクシー乗車中に過呼吸に襲われたり、外出先で猫を見ただけでもパニック発作を起こしたり…何に対してもものすごい反応を起こしていました」

2016年冬、認知症の専門医の診察を受けた志奈枝さんは「レビー小体型認知症」と診断され、「要介護4」の認定となり、処方された薬を服用すると症状が改善したという。

「最初は薬を飲ませようとすると、『毒を飲まされる』と言って大暴れしていたんですけど、必死で説得したら飲んでくれるようになりました。自分でも薬を飲むと楽になることがわかったんでしょうね。今ではちゃんと自分から薬を飲んでくれています」

今では2人とも症状が少しずつ軽減傾向にあり、お互いに笑顔で接することができるようになったという。

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◆芸能界の父と慕う永六輔さんとの別れ

母・志奈枝さんの介護生活でパニック障害になった松島さんの元に、芸能界の父と慕う永六輔さんの訃報が届いたのは、2016年7月のことだったという。

-永六輔さんとの出会いは?-

「私は子役で永さんは大学生でしたね。あの方は高校生ぐらいのときからラジオに投稿したりとか、色々なことをしていて、大学生の頃には舞台監督もしてらしたんですね。

そのときに私がスター子役だったわけですけど、『すごく感じ悪かった』って永さんがおっしゃるんですよ。そんなことはないはずなんですけど(笑)。舞台監督ですから私の楽屋に来て、段取りを説明したときに感じ悪かったって。こちらは全然覚えていませんけどね(笑)」

-それから永さんとはずっとお付き合いがあったのですか-

「どこかで途絶えていたとは思うんですけど、そのあと、永さんが時代の寵児(ちょうじ)になられてからですね、また出会うのは」

-永さんのラジオの番組にもよくご出演されていたそうですね-

「『土曜ワイドラジオTOKYO』(TBSラジオ)ですね。その前にも色々とご一緒させていただいていました。私のコンサートの演出もしてくださっていたんです」

-永さんは結構厳しいイメージがありますけれども、怒られたりしたことはありますか?―

「いっぱいあります。私のことをあれだけ怒った人っていうのは1位じゃないかしら(笑)」

-どんなことで怒られたのですか?-

「『スター後遺症』ということでね。『君はもうスターじゃないんだよ』って言いながら、えらい勢いでいろいろ怒られました。私と(坂本)九ちゃんが1番怒られたんじゃないかしら。

九ちゃんも私もわりと早い時期に売れちゃっているから、一人では電車の切符も買えないし、何もできないから頭にきちゃうんじゃないですか。

『このままいったらこの子はえらいことになっちゃうんじゃないか』っていうような、父親的な感覚っていうんでしょうかね。永さんはマネジャーも現場に付けず、全部一人でなさっていましたからね」

-将来的なことも考えての愛のムチですね-

「愛があったんでしょうね。そうとしか思えないけど(笑)。永さんにはお嬢さんが2人いらっしゃるんだけど、永さんに怒られたことがないっておっしゃるんですよね。ショックでした。

だから、『あれは何だったんだ?』って(笑)。スタッフのことは怒っていましたけど、怒られていた芸能人は九ちゃんと私じゃないですかね」

-永さんのラジオ番組で「マッチョカフェ」など色々なところに行かれたとか-

「永さんは、何でも自分の目で見て、歩いてリポートするという方だったんですね。今だったらパソコンがあれば、別に現地にレポートをしに行かなくてもしゃべれるし、書けるという感じでしょう?

でも、永さんは、とにかく自分の目で見てという方だったのね。お若いときは、東京にいらっしゃるのが1週間に1日ぐらいで、あとは全部旅。

だけど、ご自分がパーキンソン病になられてからは、自分であちこちに行くことが難しくなったので、私が行くことに。永さんの代わりはできないけど、『マッチョカフェ』とか『執事喫茶』とかね。

『今、巷ではこういうのがはやっていますよ』ってリポートすると喜んでくださったんですよね。だから真面目なものもちゃんとリポートしてはいたんですけど、永さんが絶対に行かれないようなところにも行きましたね」

-永さん喜ばれたでしょうね-

「すごい喜んでいました。永さんがそうだったんですけど、自分でアポイントをとって、自分で交渉して行っていましたからね。栃木の女子刑務所とかね。永さんがそういう方だったから、リポーターをやるときには、永さんのように自分で手紙を書いたり、電話をしたりして行っていました」

-松島さんも永さんのスタイルを踏襲して-

「そうです。今は皆さんあまりやらないですからね。パソコンで検索すればいっぺんにわかるし、逆にインタビューしちゃうと、言いづらいこともありますよね。あとはやっぱり予算がないんだと思うんですけどね。永さんは足で稼いでいましたから(笑)。

私もアメリカ、マンハッタンでホームレスにインタビューしたりとか、わりと永さんの教えは守っていたほうですね」

-永さんが亡くなられたのは2016年の7月7日でした-

「そうですね。母の具合が悪くなったのが5月ですから、そのちょっと後でした。永さんの病院にも行っていたので、変わっていく姿は3、4年見ていましたけどショックでした。

私はそのときに体の具合が悪くて病院の処置室に入っていたので携帯を切っていたんですけど、いっぱい電話やメールが来ていて、聞いてみたら、新聞社からが第一報でした。

それで家に帰ってきたら、下が稽古場なんですけれども、そこにいっぱい取材の方が来てらして…。

でも、そのとき本当に私は具合が悪かったので断ろうと思ったんですけど、永さんが、『都合の良いときだけインタビューを受けて、都合が悪くなったときに答えないというのはいかがなものか』っておっしゃっていたので、少し待っていただいて、お化粧だけさせてもらって取材をお受けしました」

-12月20日(金)には恒例の「松島トモ子コンサート」が行われますが、永さんもよくご出演されていたそうですね-

「永さんは亡くなるまでずっと出てくださっていました。私のことを『ライオンの餌です』なんて言って。そういうことは平気でおっしゃっていましたね(笑)」

-今、松島さんご自身の体調はいかがですか?-

「母の介護もありますし、あまり大丈夫じゃないんですけど、仕事はやっていますので、それで何とかバランスをとっているという感じですね」

スレンダーなプロポーション、キラキラと輝く大きな瞳、生き生きとした表情…壮絶な介護生活を感じさせないところがすごい。12月20日(金)のコンサートに加え、介護生活とこれまでの歩みを記した著書も12月に出版されるため、まだまだ忙しい日々が続く。(津島令子)

※「松島トモ子コンサート」Vol.17
12月20日(金)成城ホール
午後1時00分開場 開演1時30分
お問い合わせ K・企画 Tel:03(3419)6318

※『老々介護の幸せ~母と子の最後の旅路』
12月21日(土)発売
著者:松島トモ子 出版元:飛鳥新社
母・志奈枝さんとの介護生活、これまでの歩みについて自ら記した著書