新感覚アート番組『アルスくんとテクネちゃん』、第30回の放送に登場したのは、写真と絵画という、ある意味相反するともいえる手法を組み合わせた作品で、観る人の想像力を喚起する現代美術家、薄久保香さん。薄久保さんの作品には、フクロウ・人・植物、少女・サングラス・アンティークドレスなど、一見、関連性を見出しにくいモチーフが描かれています。でも、もし、そのモチーフが“偶然的な宿命”によって集められたのだとしたら…? 薄久保さんが創作を通じて考える、この世界のつながりとは?
◆「偶然的宿命」を感じながら作品を生み出す
―非常に写実的に描かれている『化鳥』ですが、こちらはどのように制作された作品なのでしょうか。
いくつかの類似した写真を元にイメージを再構成し、それをもとに筆と絵の具で描いています。
―まず写真を撮ることから、なんですね。
そうです。静岡県掛川市で行われた芸術祭に参加した際、掛川花鳥園というテーマパークにてロケをしました。
最初にカメラレンズを通し、客観的な世界を切り取っていきます。そして、その画像をコンピュータに取り込んでドローイングのようにイメージを展開させていく。ほんの少しではあるけれど、異なる時刻に撮影した写真を、ほぼわからないレベルで合成していきます。この作品のイメージについて、非現実的な印象を受けるかもしれませんが、植物の仮面をつけた女性や、その手にとまるフクロウも、実際に現場で起こったシチュエーションほぼそのままです。
そのようにして作り上げたイメージを元に、最終的には筆と絵の具を使いながら肉体を通して完成させていく。いわば、コピー可能なイメージを、唯一の物質として出力していく感覚です。それが私の作品制作のプロセスです。
―女性のモデルさんはどういったイメージなのでしょう。
モデルを、動物でも植物でもない“中間地点の存在”と設定しました。そこには、大正から昭和にかけて活躍した、陶芸家であり詩人の河井寛次郎の「鳥が選んだ枝、枝が待っていた鳥」という詩が影響しています。
私たち人間のような能動的な存在者が、その意思にもとづいて何かを判断したり、決定づけているという日常の思い込みを反転させて、静的で、ある種受動的にも見える植物のような存在によって私たちの思考や行動が操作されているのかもしれない。さらに、その関係性が絡みあいながら世界が成り立っているのではないか。
―なるほど。さらにフクロウがいますね。
フクロウというのは、美術においては“空間のメタファー”という位置づけでもあるんですね。空を飛んで自由に動き回ることができるので、三次元的な奥行きを与える対象として、また人間の意志が及ばない力の比喩として私の作品に度々登場します。
さらに古くから知性の象徴とも言われていて、ローマ神話では女神ミネルヴァの使いとして登場するんです。哲学者ヘーゲルは『法の哲学』の序文で「ミネルヴァの梟(フクロウ)は迫り来る黄昏に飛び立つ」と書いている。黄昏時にフクロウが、世の中がどういうふうになっているのかを見てくるんですが、この話がすごくおもしろいなと思っていて。
―黄昏時というと、昼と夜の狭間に?
そうです。フクロウは昼と夜の狭間、もっというと時代と時代の狭間に飛び立って、世の中を見渡し、報告する役割を担っている。これは、理論や解釈は過ぎ去った時間の検証からはじめて現れるもので、現実よりも遅れてやってくる。ということを表しています。
私たちの世界も、最中には何が起こっているのかはわからないけれど、状況の変わり目に差しかかってきたときに、ようやく全体像がわかるということがあると思うんです。あの時代がなんだったのかを、節目にやっと認識できるというか。
―そういった昼と夜のような“相反する存在”が、『化鳥』のなかにも描かれているのでしょうか。
そうですね。私にとって作品制作の過程で、相反する物事をどっちの側面からも見つめながら考えていくことはとても重要なことで。よく「偶然的宿命」というワードを使うんですけど、「偶然」と「宿命」って、一見相反してそうじゃないですか。でも、そのふたつを分けずに同一視するような感覚です。
―「偶然的宿命」? 偶然と宿命が同居しているということですか。
先ほどの「鳥が選んだ枝、枝が待っていた鳥」という詩の解釈に再びつながります。
鳥は、たまたま一本の枝を選んでとまったとも考えられるし、枝に呼ばれてそこにやってきたとも考えられます。キャンバスの上に零れ落ちた絵の具の現象も同様に、偶然にできた色や形といえばそれまでですが、キャンバスや環境、心理から必然性をもって導き出された唯一の現象だと解釈することもできます。
―それは偶然かもしれないし、宿命かもしれない。
そうですね。私たちが生きる上で起こる問題や決定は、自らの意思によってのみ左右されていると考えがちなんですけれども、もしかしたらそうではなくて、自分の預かり知らないことが、行動や考え方に大きな影響を与えているのかもしれないと思うんです。
日々暮らしていると「私はこう感じたからこういう行動をとったんだ」と自分を中心に物事をとらえがちなんですが、実は植物だけでなく、電柱や椅子のように”命をもっている”と認識されていないものとも関係しあって、共鳴しあって、共存しているのがこの世界なんじゃないかなと。
たとえすべてを自分が決められたとしても、その範疇でしか世界を見られていないとしたらすごく寂しいし、可能性は限られてしまうと思うんです。自分の意識でも努力でも考え方でもなく、外側から未知の力を加えられているって考えると、ものすごく世界が広がるんじゃないかなって。
―社会人って、仕事をしている過程で、「自分が決めなければ」と責任感やプレッシャーで潰されそうになるなんて話もよく聞きますが、今のお話を聞くと逆に「あ、肩の力を抜いていいんだ」と思えますね。
ありがとうございます。そうかもしれないですね。たしかに時には我(が)を押し通さなきゃいけないこともありますけど、一方で、我を手放したときにはじめて可能性が開けてくることもあるのかなと思います。なので、私が絵を描くときのモチーフ選びやモデル決めも、主体的な意思決定というのをなるべく迂回するようにしています。
モデルさんがなんらかの偶然により私の元にやってきたり、別のアーティストの制作過程で出た残骸がモチーフになったり、そうやって自然と集まってきたものからイメージを組み立てていくことが多いんです。自分のやりたいことを一旦手放すことによって、よりよいイマジネーションやアイディアが取り入れられるんじゃないかと。
◆写真と絵画、客観と主観の融合を描きたい
―もうひとつの作品『Seamless Fantasy』についてもお伺いさせてください。
これは、私が所属しているベルリンのギャラリーのオーナーの娘さんです。彼女が日本に遊びにくるときにオーナーから「彼女のひいおばあちゃんから受け継いでいる120年前のドレスがあるんだけど、もし興味があるんだったらもっていくよ」という話があったんですね。
まさしく偶然的宿命だと思って「ぜひもってきて!」とお願いしたんです。それで、私の京都のスタジオで撮影しました。
―貴重なドレスに現代的なデザインのサングラスという、なんともいえない組み合わせですね。
着ているのは120年前のドレスだけれど、サングラスは大量生産されている100円ショップのチープなもの。あと、手にもっているペーパークラフトの花は、私がドローイングのような形で即興で制作したものです。
―ここでも、120年という価値のあるドレスと、現代の100円のサングラス、相反するものが描かれていると。
そうですね。価値や文脈がバラバラなものが、その日、その瞬間、偶然の宿命によって集まっている。でもそれらは、一枚の絵のなかで私が一筆一筆描き進めていく過程においては、平等な者たちなんです。このドレスの価値も、サングラスの価値も、もっているペーパークラフトも、ヒエラルキーをもたないフラットな存在です。
―『化鳥』もこちらの作品も、素人目には写実的に描かれていると感じますが、作品を観た人に「写真みたい」といわれることは薄久保さんにとってポジティブなことなのでしょうか?
そうですね。認識や思い込みを問うという観点からはポジティブに受け止めています。
たとえばスマホの画面でネット上に公開されている私の作品を見て「あ、写真なのかな」「写真的だな」と思った誰かが、実際に作品を目の前にすると、物質感をまとう絵の具や筆跡がより強く見えてきたり、イメージを支えている見えない思考のほうへ興味が移行するかもしれない。そういう認識のギャップが、作品や世界について考えてもらうきっかけになればおもしろいですね。
カメラのレンズを通して切り取った写真は、コピーができてしまうイメージです。でも、自分の身体を通して一筆ずつ描いた絵はコピーができない。つまり二度と反復不可能な時間の集積でもあるのかなと思うんです。
そのふたつを切り離さず、ひとつの絵のなかに出現させることができないかなと。客観的なまなざしと主観的な考え、そのふたつが筆によって融合し、溶けあっている。そういうものを目指して描いていきたいと思っています。
―ちなみに、少し光の加工のようなものが入っていますよね。写真の時点ではこうなっていないのでしょうか?
はい。写真はこうはなっていないです。この光のグラデーションは、先ほどお話ししたデジタルとアナログがシームレスに融合していく状態を象徴しています。絵のなかに、こういった謎の(見えない)部分をいつも作りたいなと思っていて。やっぱり、見る人の想像力の余白になるような。私たちは、見えているものより見えないものについて考えてしまう生き物なんじゃないかな。
―そういったポイントは描きながら思いつくんですか?
そういうときもありますね。全部をバチバチに描いていくと、説明的になりすぎてる気がして。見る人の介入する余地がなくなっていくんじゃないかなと。
そういった意図から、だんだんピントが外れていったり、グラデーションがかかって対象の像が見えづらくなるような箇所を作るようになりました。でもそれも、偶然的宿命の考え方でいくと、(私が)意識的に入れていってるのか、それとも、光のほうが絵のなかに入ってきたのかは定かではないかもしれません。
◆足りないもののなかに新しい可能性がある
―『Collage-アーモンドの花』は、キャンバスの上に筆をのせて描いたものを、物理的に切り刻んで、破壊して、再構築しているような作品ですよね。
そうですね。写実的な絵画を描くプロセスというのは、あるひとつの答えに向かってずっと進んでいく、というものなんですね。でも、完璧ななかに必ずしもベストな答えがあるわけではない。むしろ足りない部分のなかにこそ、新しいアイディアや考え方の幅を生む余白があると思うんです。
なので、完璧に向かって描いていった作品を切断し、ある種欠落した部分を作ってしまう。絵を切り取った部分は消失してしまいますが、切り取られた個所は余白として新しい価値をもち、切断されたことにより生じたピースは、自由にどこにでもいける存在として生まれ変わります。
―ここにも一見すると相反してみえる行為が共存しているんですね。
話を深く聞けば聞くほど、薄久保さんの作品には首尾一貫したテーマがあることに気づかされます。このような発想には至るようになったきっかけって何かあるんでしょうか。
私は学生の頃、画家という職業に対するリアリティがあまりもてなかったんです。ただ、美大で学んだクリエイティブな考え方や知識を生かしつつ、社会に貢献できたらとは思っていて。
それで、ファインアートの学科を卒業する場合、どんな仕事に就くのがいいだろうと考えて、CG制作をする企業に就職しました。在籍期間は1年未満と短かったんですけど、そのときの仕事と現在の作品づくりは、根底ではつながっている部分もあるんです。
―そうなんですね。
CGというのは「視覚」に特化していていますよね。その仕事を通じて目から入ってくるリアリティに対してすごく考えるようになりました。「あるように見える」ように作るからこそ、同時に「見えないもの」を強く意識したというか。それは時間であったり、空間であったり。今の作品にもつながっている部分だと思います。
―CGに触発されて絵画の道へ歩まれたんですね。
そうですね。そもそも時間や空間について考えるのはすごく難しい問題だし、非常に過酷なテーゼだと思うんです。古くから哲学者や科学者たちが考えてきたようなことですから、私が作品のなかで実現できるかというと、まだまだ途中段階だと思うんですね。
でも、長い人類の歴史において先人たちが考えてきたことを、科学とは違うアートの眼差しのなかで考えてみたい。私が受けもてるのは歴史の続きのわずかなパートに過ぎないかもしれないけれど、取り組んでみて、また未来に誰かがそれについて応答してくれたらいいのかなと思っています。
<文:飯田ネオ 撮影:大森大祐>
<撮影協力:MA2Gallery>
薄久保香
現代美術作家
うすくぼ・かおる|1981年、栃木県出身。2010年東京藝術大学大学院美術研究科博士課程美術専攻修了博士号(油画)取得。主な個展に「SF – Seamless Fantasy 絵画計画と43,800日の花言葉」(2021)、「薄久保香 新作個展」(2017)、「crystal Voyage」(2012)。主な展覧会、グループ展に「Kaoru Usukubo and Daisuke Ohba – Enlil and Enki」(2020)、神宮の杜芸術祝祭「紫幹翠葉−百年の杜のアート」(2020)、「WOMAN – 鋼と柳」(2019)など。
※番組情報:『アルスくんとテクネちゃん』
毎週木曜日 深夜0時45分~50分、テレビ朝日(関東ローカル)
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