決断、奔走、悲劇…7年の物語。カーリング「ロコ・ソラーレ」が平昌五輪を掴むまで
12月10日(日)に放送されたテレビ朝日のスポーツ情報番組『Get Sports』では、2018年に開催される平昌五輪の代表に決定している女子カーリングチーム「ロコ・ソラーレ」について特集した。
◆ロコ・ソラーレが、平昌五輪代表の座を勝ち取った本当の理由とは?
今年9月に行われた「中部電力」との代表決定戦を制し、平昌五輪・女子カーリングでの代表権を勝ち取った北海道北見市常呂町に拠点を置くチーム「ロコ・ソラーレ」。
野球やサッカーなどのように各クラブチームから選出されたメンバーで混成代表チームを結成するのではなく、代表決定戦を勝ち抜いたクラブがそのまま代表となる方式を採用しているカーリング。そのため、どのクラブに身を置くかには大いなる決断が必要になる。これまでも、オリンピックという大舞台への切符を巡り、離合集散、栄枯盛衰が繰り返されてきた。
その中で、来る平昌五輪出場を勝ち取った「ロコ・ソラーレ」。結成から7年で夢を現実にした本当の理由とは何だったのか?
◆“カーリングの聖地”、常呂町とは?
北海道北見市常呂町が“カーリングの聖地”とまで称されているのは何故か?
常呂町は、北海道東部に位置する町。北にはオホーツク海を望み、西は道内最大のサロマ湖に隣接している。かつては常呂郡に属していたが、2006年に北見市と合併している。
1980年代初頭、この常呂町在住の小栗祐治(おぐり・ゆうじ)さんが、カナダ人のコーチからカーリングを学んだ。「農業や漁業が忙しくない時期のレジャーになれば」という想いで地元に紹介したのがキッカケだ。
それが町民たちにたちまち浸透し、国内初の専用リンクも建設されるなど、地域限定的に進化・発展を遂げてきた。その中からは多くの選手や指導者が生まれ、1998年の長野五輪以降は、全てのオリンピックの代表に常呂町出身の選手を送り出している。
これが、“カーリングの聖地”と称されるに至った経緯である。
ちなみに常呂町からカーリングのオリンピック代表となった選手には、男子では近江谷好幸・佐藤浩・敦賀信人(いずれも長野代表)、女子では加藤章子(長野、ソルトレイク代表)・小笠原[旧姓:小野寺]歩・船山[旧姓:林]弓枝(ソルトレイク、トリノ、ソチ代表)など、まさに日本カーリング界のレジェンドたちが名を連ねている。
そんなレジェンドのひとりが、トリノ・バンクーバーの両五輪で代表を務めた本橋麻里である。
◆本橋麻里の決断と奔走―「常呂町から世界へ!」
本橋麻里は、小笠原歩・船山弓枝らも在籍していた「チーム青森」の一員として2006年トリノ五輪に出場。小笠原と船山がチームを抜けた後は、中心メンバーとして2010年バンクーバー五輪にも出場を果たしている。
しかし、バンクーバー五輪を終えた頃、本橋の胸にひとつの想いが去来する。「どうして常呂町から直接、世界へと羽ばたけないのか?」。
“カーリングの聖地”とまで称される常呂町だが、地元にはトップ選手を支援するスポンサー企業はほとんどなかった。そのため、自らが所属していた「チーム青森」をはじめ、札幌が拠点の北海道銀行などに常呂町出身の有力選手たちが分散していたのが現状だった。
そこで、「常呂町から世界へ」という想いを胸に、本橋はある決断を下す。それが、常呂町に拠点を置くクラブチーム「ロコ・ソラーレ」の結成である。“常呂の子”を意味する「ロコ」と、イタリア語で“太陽”を意味する「ソラーレ」を組み合わせた。「常呂から太陽のような輝きを持ったチームを」という願いが込められたのだ。
本橋は早速、メンバー集めに着手。地元出身でカーリング経験のある学生や社会人に声をかけて回る。
その中に、現在のメンバーである吉田夕梨花や鈴木夕湖(ゆうみ)らがいた。吉田は、当時はまだ高校生。鈴木は145cmという小柄な体格のため、カーリングを続けるかどうか迷っていたという。本橋は、そんな彼女たちの個性を尊重、そのポテンシャルを信じていた。
一方で本橋は、スポンサー探しにも奔走。その中である企業から、「4年という短いスパンではなく、長く継続するチームでなければ、スポンサードするに値しない」との言葉をもらう。
4年というオリンピックのサイクルに沿って選手の引退や休養などが繰り返されてきた女子カーリング。それを打ち破り、直近のオリンピックを目指すだけではなく、たとえ自分たちが一線を退いた後でも継続していけるチーム作りを…。企業からの言葉をキッカケに、彼女はそう決意を固めた。
そんな中、ソチ五輪を終えた後、ある選手を襲った悲劇によって「ロコ・ソラーレ」の物語は新たなページをめくることとなる。
◆吉田知那美の悲劇と決意
「北海道銀行」の一員としてソチ五輪に出場し、その活躍と持ち前の明るさで大きな印象を残した吉田知那美。「ロコ・ソラーレ」吉田夕梨花の姉でもある彼女は、なんとソチ五輪中に北海道銀行から「次シーズンの契約を更新しない」と告げられる。まさに、天国から地獄という事態だった。
傷心の彼女は故郷・常呂町に帰り、ひとりカーリング場で練習を行う日々を送っていた。そこに声をかけたのが、本橋麻里である。「ソチで得た経験を、ロコ・ソラーレで生かしてほしい」。逡巡の末、吉田知那美は入部を決意する。
彼女の加入は、確実にロコ・ソラーレを変えていく。技術や経験は勿論、持ち前の明るさが、カーリングにとって何よりも大切なチーム内のコミュニケーションをより円滑にしていったのだ。
こうして「ロコ・ソラーレ」は、吉田知那美が加入してから初の日本選手権で準優勝を飾るまでになっていく。
そしてさらに、新たな選手の加入によって「ロコ・ソラーレ」の物語は加速する。
◆藤澤五月の加入と変革
日本女子カーリング界随一のスキップ(司令塔)と呼ばれる、藤澤五月。
並の選手であれば1点しか取られないような場面でも3点をもぎ取る強烈な攻撃力を武器に、長野に拠点を置く「中部電力」の選手として活躍。しかし、ソチ五輪代表決定戦では、小笠原歩率いる「北海道銀行」に敗戦。その敗因は、人一倍自らが引っ張っていこうという思いが強く、全てを背負い込んでしまう藤澤自身の性格に拠る面も大きかった。
ソチ五輪後の「中部電力」は、一部の選手の引退などによる世代交代がうまく進まず、2015年には前年まで4連覇中だった日本選手権でまさかの予選敗退。
藤澤は悩む。「このままの自分で、オリンピックという夢を実現できるのか?」、「さらなる成長を果たすことは出来るのか?」…。そして2015年4月、意を決し「中部電力」を退部。故郷の北見市に戻り、自らの新たなステージを模索していた。
そんな彼女に声をかけたのも、やはり本橋麻里。その誘いに、藤澤は懸けた。
「ロコ・ソラーレ」が最も大切にしているのは、チーム内の話し合いである。練習中でも、長時間話し合うことを厭わない。もともとひとりで抱え込んでしまう性格だった藤澤は、とことん話し合うチームの空気の中で、次第に解き放たれていった。
そして、この藤澤自身の変化は、チームの変革をも後押しする。
「ロコ・ソラーレ」は日本代表として初めて世界選手権に出場を果たし、なんと日本カーリング史上初の銀メダルを獲得したのだ。
◆「ロコ・ソラーレ」、世界へ!
今年9月、「ロコ・ソラーレ」は平昌五輪代表をかけた決定戦に臨む。
全5試合で先に3勝したチームが五輪への切符を獲得するという大会。相手は、藤澤五月が以前所属していた「中部電力」だった。
この大会、本橋麻里はあえて控えに回る。それがこの時点での最高の選択だと判断した。
大会に入ると、抜群の攻撃力を誇ってきた藤澤の調子が上がらず、信じられないようなミスを連発。それを助けたのは、戦力外通告から這い上がってきた吉田知那美だった。要所でスーパーショットを繰り出し、持ち前の明るさでチームを鼓舞する。
吉田夕梨花も鈴木夕湖もキッチリと自分の役割を果たし、その一方で出場していない本橋は、チームのため入念にストーンの状態を確かめていた。
初戦は「ロコ・ソラーレ」が勝利を収めたが、2戦目は「中部電力」が獲る。3戦目は「ロコ・ソラーレ」が獲り返し、これで王手。迎えた、平昌五輪を懸けた大一番。ここで、藤澤が本領を発揮する。ひとりで抱え込むことなく、仲間を信じ、ストーンを繋いだ。
そして…7年の歳月をかけ、夢は現実のものとなった。
試合終了後、本橋は対戦相手「中部電力」への感謝を口にする。藤澤は、元の所属先の応援席の前に赴き、深々と頭を下げた。「強いライバルがあってこそ掴んだ勝利である」との想いを込めて…。
様々な想いを背負って集まった彼女たちは、5人がひとつになり、まさに「太陽」のような輝きを手にした。これこそ、「ロコ・ソラーレ」が平昌への切符を掴んだ本当の理由である。
2018年2月、「ロコ・ソラーレ」はオリンピックの大舞台に立つ。<制作:Get Sports>
※番組情報:『Get Sports』
毎週日曜日夜25時10分より放送中、テレビ朝日系(※一部地域を除く)