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あおい輝彦「画期的だった」芸名を決めてくれたジャニーさんの“あるアイデア”

©テレビ朝日

「ジャニーズ」解散後、俳優としてだけでなく、歌手としても『二人の世界』『Hi-Hi-Hi』『センチメンタルカーニバル』などヒット曲を連発してきたあおい輝彦さん。

1976年にリリースした『あなただけを』は、オリコンチャートで6週連続第1位を獲得し、「第27回NHK紅白歌合戦」にソロ歌手として出場。そして同年、あおいさんは舛田利雄監督の映画『続・人間革命』で映画デビューをはたし、角川映画第1作目となる市川崑監督作『犬神家の一族』に犬神佐清(すけきよ)と青沼静馬の2役で出演することに。

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◆不気味なマスクを装着、「悪役がやりたかった」

あおいさんの映画デビュー作『続・人間革命』は1976年の邦画配給収入第1位、『犬神家の一族』は邦画配給収入第2位を記録する。

「それまで日本の映画は斜陽で、テレビに押されていたんだけど、大作映画にお金をかけて、みんなの素晴らしい才能を結集して日本映画を復活させようという動きが、『続、人間革命』から出てきて出演させていただいたんです。

それまでにも映画のお話はいくつかいただいていたんですが、もともと僕はジャニーズ出身のテレビっ子。

もし映画に出演するならテレビではできない、映画でしか表現しきれないスケールの作品を、と思っていたんです。

2作目も角川映画が大金を投じて良い映画を作ろうということになって『犬神家の一族』」を制作しました」

-『犬神家の一族』では佐清(すけきよ)と静馬の2役でしたが、衝撃的でした-

「面白かったですよ。市川崑監督が本当に情熱を込めて作ってらして。後にご本人がリメイク(2006年)もされましたよね」

-不気味なマスク姿が印象的でしたが?ー

「石膏(せっこう)で型を取るときがほんとに苦しかった。鼻をふさぐと死んじゃうから、息ができるようにパイプを通して、後は全部石膏で固めちゃうんですよ。だからデスマスク。

デスマスクは亡くなった人が作るんだけど、僕は生きたまま顔を石膏で固められたんですよ(笑)。

それまで悪役をやったことがなかった僕にプロデューサーははじめ『あおいさん、良い方の佐清だけやりますか? 静馬は他の方にやってもらいますから』って。

『冗談じゃない、僕は静馬が面白いからやりたいんだ』って言って2役をやることに」

-市川昆監督は何とおっしゃっていました?-

「2役でやって欲しかったみたい。監督が『頼むよ。まったく別人がやっているようにしてくれ』って。

『分かりました。じゃぁギャラは2倍ですね』って冗談で言ったら『ん? うーん』って言ったのを今、思い出しました(笑)」

-あの不気味さは緊迫感がありましたね-

「目だけ出ていて、ほとんど顔が隠れているんだけれども、妖気が漂っていなくちゃいけないと思ったんですよね」

-妖気がものすごく漂っていました-

「そうでしょう?あれは楽しんでやっていました。でも、マスクの下はもうグショグショ、ゴム製で密封されていて暑いんですよ。

でも、マスクを外したり被ったりすると、目の周りにメイクをしているからメイクさんに迷惑をかけるので、朝被ったら1日ずっとマスクを付けっぱなし、何時間もジーッと待っていましたよ。

撮影がクランクアップした日、あのマスクを記念にもらったんです。その夜、帰りの車中で踏切をまっている間、何気なくあのマスクを被ってみたんですよ。

そうしたら、たまたま頑丈そうな男の人がまっていていたんです。警報音のカーンカーンという音と、赤の点滅が素晴らしい効果を上げ、暗い車中に、あの静馬の白い顔が赤く点滅しながら浮かび上がったんです。

屈強な男はこちらを見て『ギャー!』と発し、100メートル8秒台のスピードで逃走!僕は一瞬、事態が把握できずマスクを外すのも忘れ『ん!警察に通報でもされたら一大事!踏切よ、はやく開いてくれ!』と赤い顔が青くなりました」

-その後も『真田幸村の謀略』、『二百三高地』、『大日本帝国』など大作出演がつづきましたが、撮影が大変だったのでは?-

「肉体的にも精神的にもそうですね。周りにいる人が『怖い』って言っていましたよ。

待ち時間も役になりきっているので、声もかけられないって。うわべだけそれらしくやるというのは嘘だから、その人物になりきっていないといけない。

『二百三高地』では僕の役、古賀武が捕虜(ほりょ)のロシア兵に発砲し、乃木将軍に異を唱え食って掛かるシーンで、心身の憔悴(しょうすい)感を出すため、撮影前5日間、断食(だんじき)をして臨みました」

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◆『水戸黄門』の“助さん”で12年間ほぼ京都に単身赴任

あおいさんは1988年から2000年まで12年間『水戸黄門』(TBS系)に佐々木助三郎(助さん)役で出演。週の大半を京都で過ごしていたという。

「日曜日に京都に行って、金曜日か土曜日に東京に帰ってくるという生活でしたから、もうほとんど単身赴任。黄門様と、助さん格さん(渥美格之進)はセットだから、つねにいなきゃいけないんです。

だから金曜日に帰れない場合はもう帰らないでそのまま京都にいる。だって土曜日に帰ってきてまた日曜日に行くんだったら疲れに帰るだけだからね。

土日にコンサートやディナーショーがあったときはもう東京には帰りませんね。

でも、家族より多くの時間をともにした格さん役の伊吹吾郎ちゃんは同じ楽屋だったんですけど、僕は寒がりで彼は暑がり。

冬でもエアコンや扇風機をつけようとするから、よく冗談でケンカしたり、おかげで楽しいときを過ごせました」

全国の老人ホームをたびたび訪問。伊吹さんと2人で「この紋所が目に入らぬか!」という名セリフとともに印籠をかざし、皆さんの大喝采をあびたという。

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◆「ジャニーズ」の名付け親は、あおいさんだった

ジャニーさんとメリーさんとともに、「ジャニーズ」を創立したあおい輝彦さん。「ジャニーズ」結成から50周年の日生劇場でのA.B.C-Z主演、『ジャニーズ伝説』。野球チームのメンバーから「ジャニーズ」が誕生し、スターになるまでの過程、人気絶頂での異例の渡米、帰国後の様子などを再現。これまでに5度に渡って舞台化され、17年の舞台からは、あおいさんもスクリーンに映像で出演されている。

-「ジャニーズ」結成の歩みを描いた舞台に、あおいさんがご本人の役でスクリーンに登場されて-

「あれもジャニーさんが企画演出で。悩んでいる若いときのあおい輝彦に、スクリーンから僕が『それでいいんだよ、この僕が言ってるんだ、間違いない!』って励ますんだから面白いよね」

-今、ジャニーズ事務所にいるタレントさんにとって、あおいさんは大先輩になるわけですが-

「2018年に『A.B.C-Z』が『ジャニーズ伝説』の記者会見をやったときに、サプライズで僕が花束をもっていったんですよ。

記者の方たちも大勢いたんだけど、急に会場が真っ暗になって、パッとライトがついたら僕が花束を持ってA.B.C-Zがまつステージへ激励に行ったんです。そうしたらジャニーさん役の戸塚(祥太)君が泣いていた。

彼らが『ジャニーズ伝説』をやるようになって、5、6年。ずっと僕たち初代『ジャニーズ』を演じているわけじゃないですか。その伝説のひとりが突然、サプライズで現れたので皆、感動したんだと思う」

-そうでしょうね。そして「ジャニーズ」というのは、あおいさんが名付け親だったそうですね-

「そもそもは野球チームだったときにちゃんとした名前がなくて、ジャニーさんはふざけて『エラーズ』とか『ヘターズ』とかって言ってたんだけど、『それじゃカッコ悪いし、ジャニーさんのチームなんだから、ジャニーズでいいじゃない?』って言ったんですよ。

ジャニーさんは照れ屋だから恥ずかしかったみたいだけど、ジャニーさんが作ったんだから当然だよね。

後に僕のマネジャーに『エラーズとかヘターズとかだったらカッコ悪くて、今のジャニーズはないよね?』って言っていたそうですよ(笑)」

-あおいさんがジャニーズ事務所を離れてからジャニーさんとはどのようなお付き合いだったのでしょう?ー

「舞台も見に来てくれていましたよ。僕の初主演の『冬の旅』(TBS系)というテレビドラマがすごく好評で、日生劇場で舞台化することになったんです。

公演中突然ジャニーさんが、楽屋に興奮して入ってきて『あそこはこうやったほうがいい』とか『ヘアスタイルが変だ』とか言うんですよ。

『もう僕はジャニーズ事務所じゃないんだけどなぁ』って思ったけど、ムキになって言ってくれるんですよね(笑)。

それだけジャニーさんはあの作品が好きだったし、僕のこともずっと思ってくれていたんだなぁ…と今でも感謝しています」

-「ジャニーズ」は最初に手がけたグループですし、思い入れもあったでしょうね-

「そうでしょうね。そうじゃなきゃ、あの『ジャニーズ伝説』という舞台は作りませんよ。

あれは、僕が50周年のコンサートをやるにあたって、ジャニーさんとメリーさんに電話を入れて報告をしたんです。

そうしたら『えーっ、そんなになるの?』って。僕に言われるまで、50周年だということに気がつかなかったんだと思う。

僕の50周年は、ジャニーさんにとってもメリーさんにとっても50周年なわけですからね。

それに気がついて、僕に当時のことをいろいろ聞いてくるんですよ。『渋谷公会堂で最後のお別れコンサートをやったよね』とか。『ハリウッドでビング・クロスビーに会ったよね』とか…。

あのときから『ジャニーズ伝説』の構想を練っていたんですね。ジャニーさんにとっても感慨深いものがあったんだと思います」

-『ジャニーズ伝説』という舞台はジャニーズ事務所に現在いる人たちも、これから入ってくる人たちにとっても、事務所の歴史がわかる意味深い舞台ですよね。ジャニーさんに最後にお会いしたのは?-

「『ジャニーズ伝説2018』の製作発表のとき。いろんな話をしました。ジャニーさんは僕が忘れているようなことも細かく覚えていました。

アイデアもすごいし、他人がやったことはやらない。前回と同じこともやらない。誰も見たことがない新たなことに挑戦しつづけていましたからね。やっぱり天才ですよ」

-あおいさんの芸名もジャニーさんがお決めになったそうですね-

「そうです。僕の本名は青井輝彦ですが『すべて漢字では硬い』ってジャニーさんが名字をひらがなにしたんですけど、名字がひらがななのは当時としては、画期的なことだったんですよ。

ジャニーさんは『あおい輝彦という名前は、大きな映画のタイトルバックに載る名前だ』って言ってくれました。

その通り『続・人間革命』『犬神家の一族』とか『二百三高地』『大日本帝国』など大作映画に出させていただきました。予知能力でもあったのかなって(笑)。

僕たち初代ジャニーズは解散し、その後ジャニーズワールドは立派な巨木に成長しましたが、その最初の、『小さな種』になれたことを、今でも誇りに思っています」

独自の審美眼で多くのスターを作り上げてきたジャニーさん。あおいさんにとっては、初めて会ったときからずっと変わらない、優しい兄貴のような存在だったという。ジャニーさんのお話をされるとき、ひときわ優しくなる眼差しが印象的。(津島令子)

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