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あおい輝彦、ジャニー喜多川さんとの運命の出会いは米軍施設の金網ごし…「野球やりたいの?」

©テレビ朝日

1962年、ジャニーズ事務所の創立グループ「ジャニーズ」のメンバーとして、14歳で芸能界デビューしたあおい輝彦さん。日本ではじめて歌って踊る「ジャニーズ」は爆発的な人気となり、ヒット曲を連発し、NHK紅白歌合戦にも出場。1967年に「ジャニーズ」を解散してからは、俳優として『冬の旅』(TBS系)、『赤ひげ』(NHK)映画『二百三高地』、『犬神家の一族』をはじめ、多くの映画、ドラマに出演。アニメ『あしたのジョー』の主人公・矢吹丈の声優としても知られているあおい輝彦さんにインタビュー。

©テレビ朝日

◆映画『ウエスト・サイド物語』で人生が一変

あおいさんのお父様は、甲子園出場経験があり、早稲田大学在学時代にはアメリカ遠征もするほどの名選手。あおいさんも小学生の頃からお父様に野球を教わっていたという。

「小学校の3年生ぐらいから父親にいろいろ教えてもらって、ずっと一緒にキャッチボールをしたりしていました」

-ジャニー(喜多川)さんとの出会いも野球だったとか、ジャニーさんと一緒に野球をされるようになったのは?-

「中学のはじめぐらい。その当時、僕は初台に住んでいて、今の代々木公園はワシントンハイツ(アメリカ軍の兵舎・家族用居住宿舎などからなる軍用地)だったんです。

僕らはそこに入れない。日本人は入っちゃいけなかったんですよ。すばらしく整備された芝生でね。ジャニーさんは少年野球チームを持っていて、監督だったんです。

それで、僕はいつも学校の帰りに代々木中学の仲間と明治神宮によく遊びに行っていて、明治神宮の隣がワシントンハイツだったから、いつも『野球をやってる、やってる、いいなあ』って金網の外から見ていたんですよ。それがのちの『ジャニーズ』のメンバーです。

ジャニーさんも僕らと顔見知りになってきて、『野球やりたいの?』って聞くから、『はい』って言ったら、そのうちチームに入れてもらうようになって」

-野球がきっかけで交流が始まったということなのですね-

「そう、野球が縁ですよね。ジャニーさんも野球が大好きだから。ジャニーさんのお父さんも『金星スターズ』という野球チームのマネージャーをしていたこともありましたからね」

-ジャニーさんは昔からミュージカルをご覧になっていたのですか-

「好きだったんでしょう、それは。ショービジネスにはもちろん通じていたし、大好きだったと思いますよ。

あまり詳しいことは知らないんだけど、ジャニーさんのお父さんが、美空ひばりさんのアメリカ公演の会場に東本願寺LA別院をあっせんしたこともあって、ジャニーさんが現地で設営を手伝ったそうですし、エリザベス・テイラーに会ったことがあるとか、そういう話は聞いていました」

-あおいさんがミュージカルをご覧になったのは?-

「野球の練習をしようとしていたら雨が降っちゃって、『練習ができないから映画でも見に行こう』ってなって、見たのが『ウエスト・サイド物語』だったんですよ。

それでみんな大感激して、もう虜(とりこ)になっちゃったんだね。『野球よりカッコいい!』と。それまで見たことがなかったから、衝撃ですよ。それで、野球の練習がミュージカルの練習に変わっていって(笑)。

少年野球チーム『ジャニーズ』のメンバーは20人ぐらいいたんだけど、最終的に残った4人とも代々木中学校生。吉永小百合さんが先輩にいるんですよ」

-ダンスや歌のレッスンはどのように?-

「ジャニーさんもメリー(喜多川)さんもそういう世界に通じていたから、ダンス、歌、演技の先生も呼んでくれてね。レッスンは楽しかったですよ」

※あおい輝彦 プロフィル
1948年1月10日生まれ。東京都出身。1962年、ジャニーズ事務所の創立グループ「ジャニーズ」のメンバーとして14歳で芸能界デビュー。1967年、「ジャニーズ」解散。『冬の旅』(TBS系)、『二人の世界』(TBS系)、『赤ひげ』(NHK)、『水戸黄門』(TBS系)、映画『犬神家の一族』、映画『二百三高地』など、ドラマ、映画に多数出演。ソロ歌手としても活躍し、『あなただけを』がオリコン週間チャートで6週連続第1位を獲得。ディナーショーでは得意のギター、ピアノの腕前も披露。アニメ『あしたのジョー』の主人公・矢吹丈の声優としても知られている。

©テレビ朝日

◆父親がジャニーさんのところに怒鳴り込んで…

ダンスや歌のレッスンをはじめて1年ほど経った頃、芸能界デビューが決まる。あおいさんはまだ14歳。早大野球部で活躍した後、新聞社やラジオ局の取締役をつとめたお父様は、あおいさんの芸能界入りに大反対だったという。

「父は僕が野球の練習に行っていると思っていたからね。それで、あるとき、父がジャニーさんのところに怒鳴り込んで、『家の一人息子をどうしてくれるんだ』って。

ジャニーさんは僕の父親のことを知っていて『(お父さんも)学業をしっかりなさって、クラブ活動として野球に情熱を燃やしていたじゃありませんか。それと同じだと考えてください。クラブ活動だと思ってください。人間修要の場にしますから、学業は絶対におろそかにはしません』って説得してくれて、できることになったんですよ」

-お父様はラジオ局の取締役もされていたそうですが、あおいさんを芸能界にということは考えてなかったのでしょうか?-

「かたい父でしたからね、すごく。とんでもないと思ったでしょうね」

-デビューが決まったときはいかがでした?-

「僕らが『やろう、やろう』って言って、やったことだから。だけど、全然プロになろうとか、芸能人になろうとか、そんなことは全然思ってないの。ただ、『ウエスト・サイド物語』のようなことをやりたい。素晴らしいミュージカルをやりたいって」

-当時はまだ日本ではミュージカルが認知されていなかったと思いますが-

「そう。あの頃は男が踊るなんて、みんな知らなかったからね。ラインダンスだとか、宝塚、OSK(日本歌劇団)とか、女性が踊るのはみんな知っていますけど、男が踊るのは知らないから、みんなびっくりしていましたよ(笑)。

当時は、男性歌手は東海林太郎さんのように、基本的に直立不動でしたからね。当時の御三家、橋幸夫さんたちも直立不動じゃないですか。

ちょっとステップを踏む程度のグループがいたくらい。それが、ビシッと『ウエスト・サイド物語』みたいにキメたもんだから、みんなビックリして『何だ?これ』って(笑)。

今はもう歌って踊るなんていうのは当たり前なんだけど、当時としては衝撃。ジャニーさんが、僕たちがデビューしたときに、木の実ナナさんのバックコーラスとダンスで出したんですよ。わざと、シルエットにしてね。

普通は新人でデビューっていうと、なんとか顔を出そうとするじゃない? それをわざとシルエットにして。男が踊っていること自体、みんながびっくりなのに、わざと姿を出さないで、ひと月くらい」

-1カ月も顔を出さずに歌って踊って?-

「そう。それでみんなの興味が最高に盛り上がったときに姿を現して『ハイ!ジャニーズです!』ってやったら、『ワーッ』てなって、もう熱狂的なファンが付いたんです」

-当時からジャニーさんの発想はすごかったのですね-

「すごい。それは『日劇ウエスタンカーニバル』でも、タイトルはウエスタンなのに、『I Love Paris』 をやったりしてね(笑)。

だから、『何を考えてるんだ?』って、ずいぶんたたかれましたよ。でも、ジャニーさんは、ジャニーズが1番カッコ良く見えるのは『I Love Paris』だって思ったら、ゴリ押ししちゃうんですよね。

たとえば紅白歌合戦に初出場のときも、『マック・ザ・ナイフ』(ジャズのスタンダードナンバー)をやったんですよ。中村八大さんと永六輔さんのオリジナルの曲があるのにですよ。どうしても『マック・ザ・ナイフ』をやるって(笑)。

『お正月をむかえるおめでたい日に、何がナイフだ』って、散々批判されたけど、やり通した」

-それでもやり通すところがすごいですね-

「そうなんです。それを通しちゃう。だから、シルエットにするのだって、プロデューサーも番組のディレクターも、みんな反対するわけじゃない? それでも『いいんだ、シルエットにしてくれ』って。だから、そのセンスがね、みんながおよばない天才なんですよ」

-あおいさんは、デビューのときにシルエットだと聞いていかがでした?-

「何にも思わなかった。プロになる気もないわけだし、やりたいことができてうれしかったからね」

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◆人気絶頂時にアメリカ留学を決断

-そして、お顔も出してということになったときは?-

「もうすごかったですよ。ステージでは客席の3分の2が空席になるんですよ。2階も3階もみんなドーッと前に来ちゃうから、前の子は押されて真っ青な顔になっちゃって、ステージに引き上げて救急車で運んだりね。昔はあまり規制がなかったから。

それでジャニーさんは、僕たちが『こういう風にやりたい』っていうと、それは『ジャニーズ』にとってはいいアイデアでも、前と後ろにも出る歌手がいるわけだから、それを交渉に行くって言って、ある歌手の方に交渉に行ったんですよね。

それで、しばらくして楽屋に戻って来て、『OKだよ。君たちが言った通りでOKだから、あの通りにやりな』って言ったんだけど、よく見たらネクタイがひん曲がってクチャクチャになってる。

あれはきっと胸ぐらをつかまれたんだと思う。すぐに見てわかった。どんな力にも屈しない強い心で僕たちを守ってくれるわけだから、信頼関係は深まりますよね」

-そういう方だから、多くのスターを誕生させて来られたのでしょうね-

「そうですよ。本当にすごい人です」

-ジャニーズがすごい人気になったときには芸能界でやっていく決心をされていたのですか?-

「アイドルという言葉もなかった時代だからね。それで僕たちには『ウエスト・サイド物語』のようなすばらしいミュージカルがやりたいという志があったわけですよ。一生懸命歌も踊りも練習してね。

だけど、ステージに出て行ったら『ギャー!!』って、誰も歌なんか聞いている人はいない。当時はテープを投げるのがはやっていて、すごくたくさん投げ込まれ、一生懸命踊っても足に絡まってひっくり返っちゃうんですよ。

それで、キャーキャーキャーキャー言っている興奮のるつぼのなかで曲が終わって、楽屋に帰ってきて『俺たちは何をやってるんだ? これ。全然思っていることと違う』って。

みんなの頭に『?』がついて…。『僕たちがやりたかったのはこんなことじゃない。とにかくいったん辞めて、ミュージカルの発祥地であるアメリカへ武者修行に行こう』って。それで人気が絶頂のときに活動を一時辞めてアメリカに行っちゃったんですよ」

-すごい決断ですよね-

「そう。ジャニーさんも『おー、いいよ』って(笑)。そこがジャニーさんはすごいよね」

-ジャニーさんもアメリカに一緒に行かれたのですか-

「そう。メリーさんもね。『ジャニーズは6人』って言っていたんだから。僕たち4人とジャニーさんとメリーさんと、6人がジャニーズだって言っていたの。だからアメリカにも6人で行きました」

人気絶頂のときにミュージカル発祥の地であるアメリカ留学を決行した「ジャニーズ」。次回はアメリカ留学、幻の全米No.1ヒット曲、「ジャニーズ」解散、俳優生活について紹介。(津島令子)

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