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撮影後、おんぶして銭湯まで…松村雄基、脳梗塞で倒れた祖母との日々を振り返る

©テレビ朝日

『スクール☆ウォーズ~泣き虫先生の7年戦争~』をはじめ、大映ドラマ黄金期を支えたイケメン常連俳優・松村雄基さん。俳優そして歌手としてドラマ、映画、舞台、ライブと活躍の場を広げているが、俳優になったきっかけは意外なものだった。

©テレビ朝日

◆芸能界には全く興味がなかったが…

-芸能界に入ったきっかけは?-

「学校の女の子のお母さんが、今の事務所の社長と知り合いで、誰かいないかという話になったらしく、その女の子から突然家に電話がかかってきたんですよ。それで僕が出たら、『何年何組の何々と言いますが、松村さん、テレビに出たくないですか? ちょっと会って欲しい人がいるんですけど』って。こんなぶっきらぼうな箇条書きみたいな言い方ですよ。おかしいでしょう?(笑)」

-その女の子は友だちだったんですか-

「クラスも違うし、僕は知らなかったです。そのとき、僕は祖母と暮らしていたんですけど、祖母が『無下にするのも良くないから、まずはお話を聞いてみなさい』と言うから会うことになって…。それが14歳のとき。

それで会って話をした翌日、社長が祖母に僕を預かりたいということを言って、祖母から『社長さんが良さそうな人だし、やってみても良いんじゃないの?』という一言でやることになったんです。僕は一言も『やりたい』と言わなかったんですけどね」

-すごい展開ですね-

「中学校にも今で言うイケメンがいっぱいいたし、僕を紹介してくれた女の子にはスポーツもやっている端正な顔立ちの彼氏がいたので、彼女に『何で彼氏を紹介しなかったの?』って聞いたら、『彼には芸能界みたいな汚いところには染まってほしくなかった』って言うんですよ。ひどいでしょう?(笑)

それで、『じゃあ、俺は良いのか?』って聞いたら、『あんたは生きていけそうな気がした』って。クラスも一緒になったことがない女の子なのに、たまたま僕が生徒会長をやっていて、『しゃべっている姿を見たら、何か図々しいような、生きていく何かを感じた』って。ほめているのか、けなしているのかわからないようなことを言われました(笑)」

-それがきっかけで芸能界デビューして39年ですか-

「そうです。彼女がいなかったら、僕は今、ここにいないわけですから人生ってわからないものですね。今は本当に感謝しています。

去年、その彼女ではなく、お母さまが舞台を見に来てくださって、何十年ぶりにお会いしました。お母さまだって、僕はお会いしたことがほとんどないんです。『何々でございます』って言われて『ああ、おかげさまで今、このように舞台をやらせてもらっています』って、なんだか不思議な会話をしてました(笑)」

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◆母親代わりに育ててくれた祖母が倒れて

-おばあさまは松村さんのドラマを楽しみに見てらしたでしょうね-

「多分見てたでしょうね。自分が育てたかった方向とは違う役柄で、最初はビックリしたと思いますけどね(笑)。人を殴ってばかりでしたから。

祖母は礼儀に関して厳しかったので。敬語にも厳しかったですし、箸の持ち方から食事は正座で口をきかずにご飯を食べるんです。テレビもつけずにジッとしてお通夜みたいに。

それがもう人を見れば殴っているような役でしたから(笑)。役とはいえ、ちょっとと思ったかもしれないけど、喜んではくれていました。結局、祖母が決めたんですからね。『やりなさい』って。やったらこんな風になっちゃったよっていうことですからね(笑)」

-テレビを見ての感想などは言われなかったんですか-

「僕が恥ずかしいから聞かなかった。聞かないですよ。家族に言われるほど照れくさいことないじゃないですか(笑)。芝居もへたくそなのに」

家庭の事情で小さい頃から祖母と2人暮らしだった松村さん。自宅に生徒を集めて詩吟を教え、母親代わりに松村さんを育てた祖母だったが、松村さんが俳優デビューした翌年18歳のときに脳梗塞で倒れ、その後遺症で体の自由がきかなくなったという。

-おばあさまが脳梗塞で倒れたのは18歳のときだったそうですね-

「そうです。2年間演技のレッスンを受けて、高2の17歳のときにテレビ朝日のドラマ『生徒諸君!』デビューしたんですが、その翌年でした。ずっと2人暮らしだったので、僕が撮影を終えて帰るまでは叔母がいて、僕が帰るとバトンタッチという感じでした。

祖母は、会話はできるんですけど、歩行が難しかったので、トイレも介助が必要でした。だから、僕とか叔母とかいないとダメでしたね。アパート暮らしでお風呂がなかったので、銭湯まではおんぶして行ってましたし…」

-ハードな撮影スケジュールに加え、介護もとなると、かなり大変だったのでは?-

「でも、若かったし、それこそ『スクール☆ウォーズ』のように泥んこまみれになって動いているのって、ストレスの発散になっていたと思うんですよね。ずっと家にいたらまた違っていたかもしれないですけど…。

で、帰ってセリフをやっているときは静かに聞いていてくれますしね、祖母も。『こんな感じのセリフなんだけど』って、あまりビックリしないセリフのときには聞いてもらったりしていたので、何か良い意味で、お互いのガス抜きにはなっていたかもしれませんね。現場でもそうですし、家でも」

-おばあさまのご病気のことは共演者の皆さんも知らなかったそうですね-

「芸能界の方にお話したことはあまりなかったので。だから、『付き合いが悪いなあ』って言われたときには『いやあ、きょうはちょっと当番なんで』って言ってました。僕は夜1日寝ないで、祖母の番をするんですけど、それを叔母と叔父と僕がサイクルでやっていたので」

その後、祖母に認知症の症状が現れ、在宅での介護を10年間続けた松村さんだが、症状が進行し、家族だけで介護することに限界を感じ、特別養護老人ホーム(特養)に入ってもらうことにしたという。

―特養へというお話をされたのは?―

「僕がしました。そのことを伝えると、『いいよ。おばあちゃん、行くよ』って言ったんです。とても優しい笑顔で。本当は家や家族と離れたくなかったと思うんですけどね。祖母はそれから10年間、特養で過ごし、2000年に87歳で亡くなりましたが、眠るように穏やかな最期でした」

-脳梗塞で倒れてから20年間、かなりきつかったのでは?-

「それが全然なかったんですよ。だから、若いってすごいって思います。あと、僕はスタッフやキャスト、周りに恵まれていたと思います。楽しかったですから、現場が。怒られまくったんですよ。監督にも怒鳴られ、『役者やめろ』、『へたくそ』、『お前なんか来るな』って言われてましたしね」

-もうやめちゃおうかなと思ったことは?―

「それはなかったかな。社長の娘さんと息子さんが同じくらいの年だったので、父親みたいなものじゃないですか。この社長が基本的にアウトローで、『何かあったら俺が責任を取るから、お前はやりたいことをしろ。変なことで媚(こび)を売ったりするな。いつでも北海道に帰るから、お前も芸能界をやめて来い』って若いときに散々言うわけですよ。これだけいろいろ面倒をみてくれているんだから、社長がやるという限りはついていこうって思いましたね」

―おばあさまも良い人だとおっしゃっていたそうですしね-

「社長と祖母はすごく仲が良かったんです。祖母が存命中は、振り込みができる頃になっても、毎月僕の給料を『おばあちゃん、ありがとうございます』って、祖母に持って行って渡していたくらいですしね。祖母の認知症が進行し、特別養護老人ホームに入って、お金の管理などが難しくなってからも、祖母によく会いに来てくれました。

『お前が今あるのはおばあちゃんのおかげだから、俺はお前のおばあちゃんを本当に一番尊敬している。そのおばあちゃんに育てられたお前は間違わないから、ケンカして良いから、現場で』って。何か意味がよくわからないんですけど(笑)」

―すごいですね。その結びつきというか関係は-

「そうですね。だから祖母が人を見る目が確かだったのか、僕は本当に恵まれていると思います。そういうことで今日があるので、周りのおかげだと思うんですね。叔父と叔母もそうですけど、恵まれました」

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◆書道を始めたきっかけは『くたばれ日展』?

―書家としても活動されていますが―

「30歳のときに始めました。書店で大渓洗耳先生の『くたばれ日展』という本を見つけて。書の先生が『今の書壇は金権体質で最悪だ。こんなのは本当の書の世界ではない』ということをとうとうと書いてあったんですよ。その言いたい放題がすごく小気味良くて、この人に会ってみたいなと思って。

書道に関しては、高校の学科で選択していたことや、祖母が厳しくて、字を丁寧に書くと、ほめてもらえたので、興味はあったんです。それで電話したら『体験入学をやっているのでどうぞ』と言われたので、その人に会えるのかなと思ったら、若い女の先生に『まず書いてみましょう』と言われて『いや、書きにきたわけじゃなくて会いに…』と言ったんだけど、『まあいいからいいから』って、いきなり書かせるんですよ。これぐらいだったらできるなと思ったんですけど、やってみたら全然ダメで、悔しいなあと思って通うことにしたんです」

―本の著者の先生には会えたんですか-

「もう亡くなられたんですけど、時々講義をしてくれていました。落語家の落語を聞いているようにおかしかったり、ドキリとさせられたり、面白かったです。日展と言ったら日本で最高の展覧会ですよ。それにくたばれって言って、もう言いたい放題で、こっぴどく書道界から怒られて…。

だからこの先生もアウトローなんですよ。うちの社長もアウトローでしょう? なぜか僕はアウトローにばかり惹かれるんですよ(笑)。役柄もアウトローだったし。そういうのもあって続けていたら、面白くなったんですね」

―それで内閣総理大臣賞も受賞されて-

「あれはビックリしました。最初に書き方を教えて下さった五月女玉環(現在は紫映)先生が、直接の先生になって、今でも教えてもらっているんですけど、本当に根気よく教えて下さって。

ひとつの作品を作るのに、だいたい1時間ぐらいかかるんですよ。それを僕は50枚作って、50枚作るだけで50時間ですからね。撮影もしていますし、その合間に書いて、それで先生のところに持って行っては先生がチェックしてくれて、色々と指導してくださったのもあって、なんとか運良く取れたんです」

―ファンクラブ会報も直筆でページ数もかなりあるようですが-

「いやいや、あれは読まされるほうも苦痛だろうってよく言われます(笑)」

◆主演映画で『スクール☆ウォーズ』の山下真司と共演

主演映画『聖域 ~組長の最も長い一日~』では『スクール☆ウォーズ』の山下真司さん、小沢仁志さん、四方堂亘さん、三浦浩一さんと共演。松村さんは山下さん演じる暴力団の組長を支える主人公の若頭を演じている。

―映画『聖域2 ~組長の最も長い一日~』がもうすぐ発売になりますが、『スクール☆ウォーズ』を見ていた世代にはたまらないキャスティングですね―

「懐かしいメンバーでした。今回の映画のプロデューサーから監督に『ちょっとここで山下さんから松村さんにラグビーボールのパスできないか?』って、無理難題があったりして(笑)。おかしいでしょう?『ラグビーと全く関係ない暴力団なのに、なぜラグビーボールを?』って。もう関係ないんですよ、プロデューサーは、話題になれば良いと思って(笑)」

―『スクール☆ウォーズ』時代の皆さんとの共演はいかがでした?―

「いやあ、もうめちゃめちゃ懐かしかったですし、最初は照れくさかったですね。何か親戚とか親兄弟と芝居しているみたいな感じになるんですよ。もう34年も前にやった『スクール☆ウォーズ』がメインですけど、ずっと一緒だったので。

まあ、あれは男同士だから良いんですけど、女優の伊藤かずえさんとかいとうまい子さんなどになるとダメ。大映テレビ時代を経て、のちに恋人役なんかをやろうものなら、もう目線を合わせられないですよ、照れくさくて。だから懐かしいという思いはありますけど、照れくさいという感じのほうが強かったですね(笑)」

―今は舞台稽古の真っ最中ですか-

「そうです。鵜山仁さんという文学座の方が演出で、主演は八千草薫さんの舞台『人生最高の輝きを今~黄昏~』です。6人しか出てないんですけど、この方たちとの日々が、とても新鮮で、難しいなあと思ったり、面白いなあと思ったりして毎日、一喜一憂しています。

これがとても楽しくて、それでこの舞台が終わるとすぐにミュージカルがあるんですよ。ライブのリハーサルもありますしね。

結局、そのときに自分がやっている仕事にすごく影響を受けて夢中になっているので、今はこれで良いのかなって。来る仕事、来る仕事本当に新鮮ですね」

―忙しいですね。39年間、ずっとそういう感じですか-

「そうですね。長期で空いたということはあまりないかな。でもね、昔の連ドラをずっと続けて撮っていた頃にくらべたら、休みはありますよ」

―お休みは何をされているんですか-

「気の置けない友だちと前の晩から飲んでいたりとか、時間が取れないとできない『書』に取り組んだりしています。『よし、これから数日間こもります。誰とも連絡取りません』とかね」

―修行僧みたいですね-

「よく言われます。あとお経をおぼえたら修行できるんじゃないかって(笑)」

30代に入った頃から舞台の仕事をするようになり、役者はからだが資本だということを改めて実感したという松村さん。朝は4時半くらいに起きてジョギングとストレッチ、筋肉トレーニングを行っているというだけあって、スリムな体型はデビュー当時とほとんど変わらず、爽やかでカッコいい。(津島令子)

※『聖域2 ~組長の最も長い一日~』(DVD)
発売日:7月25日 販売元:株式会社オールイン エンタテインメント
監督:藤原健一 出演:松村雄基、山下真司、四方堂亘、小沢仁志、三浦浩一

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