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蝶野正洋、ヒールの道に進んだ理由 “黒のカリスマ”誕生の裏にドイツ人妻

©テレビ朝日

高校卒業後、何もやる気にならず1年間遊んだ末、両親のすすめに従い大学進学を目指して予備校に通うことにした蝶野さん。しかし、そんなある日、テレビでアントニオ猪木さんの試合を見て感動しプロレスの道に進みたいという思いが沸き上がる。

©テレビ朝日

◆新日本プロレスに入門したが…

-もともとプロレスに興味があったのですか?-

「いや、それまでモハメド・アリ戦やウィリー・ウィリアム戦とか大きい試合は見ていましたけど、憧れたりとかはなかったんです。

でも、19歳のときにテレビで見た猪木さんの試合はすごかったですね。また藤波辰爾さん、長州力さんがちょうど出て来たときで、2人による日本人対決だったんです。それがものすごいスピーディなスポーツ感覚の試合だったので、それを見て、『あれ?プロレスってこんな競技なんだ』って思って…。

親に言われて2年目からは浪人生活を送るということになって、予備校に行く手続きをしたんですけど、そのときにはもうプロレスにチャレンジしたいという思いが強くなっていたんですよね。だから、親には予備校に行くと言って、トレーニングジムに通うという1年間でした」

-ご両親は気づかなかったのですか?-

「はい、親に話をするときは、大学のどこかに受験で受かって、新日本プロレスのテストにも受かって、それで俺はこっち(プロレス)を選びたいんだというのが夢だったんですよ。

でも、新日本プロレスのテストの合格通知(入門許可)は来たんですけど、大学は6校ぐらい受けたのに全部落ちてしまって…。どうしようかと思っていたら、最後の1校から合格通知が来たので、そこで初めて親にプロレスの話をして、何とか説得して入門したんです。親には『レスラーとして芽が出なかったら大学に行くから』と言ってね」

-プロレスは夢に見た世界でしたか?-

「いやあ、全然違いました。自分が見ていたのは、テレビで出ているメインイベンター、一部の人たちですよね。藤波さん、長州力さん、タイガーマスク、猪木さんというのは、本当に限られた人たちで、その下を知らなかったんですよ。

入門したら、まず同期のライバルがいる。さらに先輩もたくさんいるわけですよ。それに新弟子のなかでも、橋本(真也)選手や武藤(敬司)選手は柔道である程度の実績を残している選手たちなので、スパーリングとかをやったら、まったく歯がたたないわけですよ。

それに、たいしてからだが大きくない先輩たちとスパーリングをやっても、全然かなわない。もう完全に遊ばれちゃうわけですよ。

それを見たときに、『これは猪木さんみたいな上の世界に行くためには40人は抜かないといけない。さらに外国人選手もいるわけだし、これは無理だなあ』って思いました」

-練習はいかがでした?-

「いやあ、きつかったですね。入門前に一応自己流でやってたんですけど、全然違いましたからね。腕立て伏せも何十種類もやり方があるし、スクワットも腹筋も繰り返しやらされる。この基礎練習がとにかくハードでした。

腹筋なんて、腹の上にボールを落とされたりしましたしね。同期で格闘技の基礎があった橋本選手や武藤さんですら、悲鳴をあげていたくらいです」

-それでも続けてこられたのはなぜですか-

「そうですね。やっぱり自分のなかで好きでやろうと思ったことだからでしょうね。サッカーは続けられなかったですからね。よく親に何をやっても長続きしないと言われていたので、何かをやり遂げたいという思いもありましたね」

1984年10月、武藤選手のデビュー戦の相手として、プロデビュー。試合開始30分前に突然、知らされたという。作戦を練る間もなくリングに立った蝶野さんは、わずか3分で逆エビ固めをかけられてギブアップすることに。

その後、猪木さんの付き人をしながら練習をこなし、多くを学んだ蝶野さんは、1987年、「第3回ヤングライオン杯」で優勝。優勝条件の海外武者修行へと出発する。

©アリストトリスト

◆海外での武者修行、そして運命の出会いが

-ヨーロッパ、その後アメリカなどを転戦した海外での武者修行はどんな感じだったのですか-

「想像以上にきつかったですよ。泊まるのは治安の悪い場所で薬物中毒の連中はウロウロしているし、人種差別もあったし、言葉もろくに通じない。孤独との闘いでした。おまけにプロモーターからもらった小切手を銀行に持って行ったら不渡りで換金できなかったり…そんなことがしょっちゅうで、頼るアテもない。わずかばかりの貯金で何とか食いつないでいるという生活でしたからね。小学生のときから番長だった俺が海外では何もできないということを思い知らされてショックでした」

-そんななか、奥様(マルティーナ・カールスさん)と運命の出会いが?-

「そうですね。片道切符で海外に出されて、2年半ぐらい。その間に何回か日本に呼ばれるんですけど、ちゃんとした帰国命令はもらえず、また海外に戻らされるんです。もう日本には帰れないんじゃないかという不安のなかで、ドイツのブレーメンで家内と出会いました。

あるホームパーティーだったんですけど、酔いつぶれた俺を介抱してくれたのが彼女なんです。まだ英語も片言でしたが、翌日すぐに花を持って彼女のバイト先に行き、デートに誘いました」

-猛アタック開始ですか-

「そうですね。その後、アメリカからカナダに行ったり、カナダからアメリカに戻って、またドイツに…と放浪するわけで、そのときに支えになったのは家内です。もし、家内が一緒にいなかったら、どっかでくさっちゃってたかもしれないですよね」

1988年、橋本真也さん、武藤敬司さんと「闘魂三銃士」として凱旋帰国。1992年、G1クライマックス3度目の制覇後、「体制に守られたレスラーはレスラーじゃない」と武闘派宣言。

ヒールなのにカッコいい“黒のカリスマ”が誕生。長い学ランを思わせる衣裳は、反体制側にいる仲間思いの強い番長を思わせ、蝶野さんのイメージそのもの。

-“黒のカリスマ”といわれるようになった衣裳も奥様のアイデアだそうですね-

「プロデュースは全部家内です。でも、最初から『サングラスもかけろ』って言われていたんですけど、『いやあ、それはちょっと行き過ぎだろう』って、半年間ぐらいは拒否していたんですよ。アメリカの選手などは普通にサングラスをかけてましたけど、日本の選手でサングラスかけて入場している人なんて誰もいなかったですからね。自分ひとりだったら、やらなかったであろうファッションですね」

-奥様のアイデアが見事にあたってカッコいいヒールとしてそれまでの悪役のイメージを大きく変えました-

「俺が海外に修行に行かされた時代は、今よりもっと人種差別があって、根本的な人種差別の意識というところから自然に東洋人とか、黄色系人種とか、有色人種が絵面的にも絶対ヒールになるんですよね。

それで、客の『お前の試合なんかつまらねえぞ、帰っちまえ』というストレートなヤジに対して『なんだ、コイツは俺のことをわかってもいないくせにふざけたことを言いやがって』という怒りを見せて、客とのぶつかり合いを見せていく…というのが、自分のなかでは新しい感覚でやりやすかったんです。

日本ではG1のチャンピオンになったり、選手会長もやっていたし、ある程度正統派の担い手にもなったところで、俺も何がやりたいのか、はっきりわかってなかった。

ただ、ここの軸(正統派)に立っている橋本、武藤、蝶野という闘魂三銃士、猪木さん、藤波さんという立ち位置に並んでも、俺は多分、目立てないなとは思っていました。それで、アメリカに行っていたときの正義のベビーフェイスとヒールという構図のヒールの立場に立ったほうが目立てると思ったし、もっと自由なプロレスができるんじゃないかって」

-思い切ったイメチェンですよね-

「でも、お客さんはいわゆるヒールとかベビーフェイスという目で見ますけど、戦っている人間たちというのは、いかに会場を沸かせるか、楽しませるかということを考えていて、それを考えられるのは、どちらかというとヒール側なんですよ。

ベビーフェイス側の選手たちは、いかに自分をカッコ良く見せるかと、多分そこばかりが中心になるんですよね。でも、そこには相手があって、それで初めて自分をカッコよく見せることができるんですけど、ベビーフェイスの選手たちは、その構図があまりわかってない」

-G1の連覇もされていた蝶野さんがヒールというのに会社内の反応は?-

「興行の世界で、親方の猪木さんが、自分たちのレベルでは、ちょっと理解できないような興行の進め方とかするわけですよ。それでみんな反対するんですけど、表に出して言えない。同じ正規軍というところの親方ですから。

ただ、ヒールだから俺はそれに対して『おい、猪木、おかしいだろう。てめえ、この野郎。てめえ何でこんなことをやるんだ』ということを立場的に言えるんですよ(笑)。それは多分ファンの声でもあるし、内部の選手たちの心の声でもあるし…そんな立ち位置になっていましたね」

-蝶野さんがヒールを演じて華やかになりましたよね-

「そうですよね。だからたまっているものも吐き出す、まあ野党みたいなものですよね(笑)。でも実際にちゃんとやっているのは、正規軍の与党のほうなんですけどね」

-黒のカリスマとして注目を集めたことに対して奥様は何かおっしゃってました?-

「いやあ、試合にまったく関心を持ってくれないので。だからだいたい見るのも、東京ドーム大会だったら、入場のところだけ。それも自分がデザインした衣裳を見るためにですよ。そのうち入場シーンがカットされたら見なくなりましたからね(笑)」

2000年、蝶野さんは奥様とともにファッションブランド「アリストトリスト」を立ち上げる。「アリストトリスト」は「アリスト」(上流)と「トリスターノ」(庶民)の造語。フォーマルもカジュアルも、老若男女、分け隔てないという意味。海外で人種差別に苦しめられた経験がある蝶野さんならではのブランド名。

©テレビ朝日

◆たまにはピンクも着たいけど…

-プライベートでも黒い服が多いですか-

「俺だって、たまにはピンクとか着たいときもあるじゃないですか。でもカミさんがそれダメって(笑)。たまにちょっと違うような服を着るときがあるんですけど、そうすると、しょっちゅう文句を言われていますよ」

-司会をつとめるTOKYO MXの『オトナの夜のワイドショー!バラいろダンディ』の衣裳は?-

「あれもスーツは全部、カミさんとやっている『アリストトリスト』の服です。ワイシャツは市販のものなんですけど、毎日黒というわけにはいかないので、白とかピンク、ブルーなどを自分で選んで入れています。カミさんには『ピンクとかブルーもダメ、白もあり得ない』って言われるんですけど、最近は少しずつわかってきてくれているみたいです(笑)」

マルティーナ夫人が手がける蝶野さんのリング内外のトータルコーディネートは、プロレスの枠を越えて、スポーツ界のファッションリーダーとして注目の的。蝶野さんがプロデュースし、マルティーナ夫人がデザインを手がけるファッションブランド「アリストトリスト」のブランドイメージは黒。黒はパワーを与えてくれる色であり、誰ものパーソナリティーを強くしてくれる力を持っているという。蝶野さんにはやっぱり黒が良く似合う。

次回は年末恒例の「蝶野ビンタ」、ライフワークである救急救命活動、2児の父、愛犬家としての素顔を紹介。(津島令子)

※蝶野正洋オリジナルブランド「アリストトリスト」
〒104‐0061
東京都中央区銀座3‐8‐12
銀座ヤマトビル4階
TEL 03(6161)6070

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