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蝶野正洋、生放送のMC初日に欠席!「最初はカンペ読むのも上手くいかなかった」

©テレビ朝日

新日本プロレスで武藤敬司、橋本真也とともにユニットを組み、“闘魂三銃士”として活躍。ブレーク後、黒を基調としたコスチュームに一新し、クールなヒール(悪役)“黒のカリスマ”として君臨。前人未踏のG1クライマックス5度制覇を果たし、NWA世界ヘビー級王座も獲得するなどスーパースターとしての地位を確立。

リングの外でもタレント、ファッションブランドのオーナー、ライフワークとしているAED救急救命や地域防災の啓発活動など快進撃を続けている蝶野さんにインタビュー。

©テレビ朝日

 

◆蝶野正洋、生放送のMC初日に欠席?

昨年からはMXテレビの『オトナの夜のワイドショー!バラいろダンディ』(以下バラダン)で毎週月曜日から木曜日までの4日間、MCを担当。

トレードマークの黒いサングラスをかけて、板東英二さん、カルーセル麻紀さん、玉袋筋太郎さん、梅沢富美男さん、遠野なぎこさん、女装家のナジャ・グランディーバさんなど個性的なコメンテーターを相手に展開する落ち着いたMCぶりが話題に。

-週に4日、生番組のMCを担当されていますが、いかがですか?-

「ようやく少し慣れてきました」

-かなり個性的なコメンテーター陣を見事にハンドリングされて―

「いやあ、最初は何か変に気を使ってしまって…。やっぱり過去にトラブルや色々なことを抱えている方もいますし、結構好きなことを言っちゃうので、自分がちょっと気を使いすぎていた感じがあったんですよね」

-蝶野さんが司会をすることになったのは急だったんですよね-

「そうです。ちょうど俺がゲストで行く日に前任者の降板が突然発表になって、いなくなったんです。それで突然、俺も冒頭の謝罪に担ぎ出されて『すみません』てあやまったりして、そのあと2か月半くらいは、みんな交代でやってたんですよね。それから突如、MCを昨年の1月からやってくれということになって…。

自分ではまったく考えてなかったことだったんですけど、プロデューサーがマツコデラックスさんを引っ張ってきた方で、奇抜な抜擢をされるみたいで。

もともとその方を通しての『バラダン』ラインだったんですけど、プロレスもとても好きな方だったので俺がMCをということに。でも、MCだけは俺もちょっと『えっ?』っという感じでしたよね」

-生番組ですしね―

「そうですね。それで、1月4日からスタートだったんですけど、その日に行けなかったんですよ。テレビ朝日のプロレスの解説がその前に入っていて、7時から8時くらいで終わる予定だったので、それが終わってから行くことになってたんです。

3時くらいからの興行でしたからね。それなのに、試合が長引いてしまって、9時半くらいまで解説席から離れられなかったんで、結局間に合わなくて(笑)」

-記念すべき第1回目に欠席ですか?-

「そう。だからもうネットではいっぱい書かれました(笑)。結局、俺は次の日からMCを始めたんですけど、最初というか3ヵ月間ぐらいは、カンペを出されても、それ見ているんだけど、頭に入らないんですよ。

字を見ているのに読んでないんですよ。それで間違えてしまったりとか…(笑)。全体を理解して、自分が思うタイミングで、という風になってきたのは、やっぱり1年経ってからですね」

-コメンテーターとMCでは全然立場が違いますね-

「そうですね。コメンテーターのほうが大変だと思います。人と違うことを言わなければいけないし、言ったことに対して反響とか責任があったりするじゃないですか。MCはカンペもありますしね(笑)」

-MCをされるようになって変わったことは?-

「MCは自分が出るというより、ある意味、引いて全体像を見なくてはいけませんからね。

コメンテーターというのは、振られたときに尺であったりとか、インパクトがあることをいかに上手に話すかということ、そこもやっぱり自分がMCの立場になったことで勉強になっていますね。

それまでは何か、いろいろなことを話そうとしてるんだけれども、結局、好きなのか嫌いなのかということがはっきりわからないコメントをしていたと思うんです。それが一番聞いているほうはイライラするので、気をつけるようになりました」

-コメンテーターの皆さん、かなり暴走気味のときもありますね-

「そんな人ばかりですよ(笑)。みんな言いたいことを言ってますから。『もういい加減にしてくれ』って思うときもありますけどね」

-かなり疲れるのでは?-

「いや、それは今はないですね。始めたばかりの頃は、1ヵ月が1年間ぐらいに思えるほど長く感じたんですけど、今はもう、逆に楽しく終わったなあっていう達成感のほうが大きいです」

-これまででやりにくいと感じたことはありますか?-

「長州力さんと前田日明さんが来たときですね。プロレス界の先輩だし、一緒にリングに上がって戦っていた相手がゲストで来るわけですからね。自分はカンペを読むのが精いっぱいで、それもかんじゃってるという状態を見られるのは恥ずかしかったですね。

これまで俺は長州さんに『滑舌が悪い』とか、結構言っていましたからね。その長州さんがゲストということは、何でも言いたいことが言えるということだし、突っ込めるわけじゃないですか。あれはやりにくかったですね(笑)」

©テレビ朝日

※蝶野正洋プロフィル
1963年9月17日、アメリカ合衆国ワシントン州シアトル生まれ。1984年4月に新日本プロレスに入門。10月にプロデビュー。海外での武者修行を経て、武藤敬司、橋本真也とともに“闘魂三銃士”として人気を博す。1991年、第1回G1クライマックスで優勝し、その後史上最多となる5度制覇を達成。数々のタイトルを獲得。1994年、武闘派宣言し、ヒール(悪役)に転身。「黒の総帥」「黒のカリスマ」としてブレーク。2010年、26年間所属していた新日本プロレスを退社してフリーに。MC、映画、ドラマ、CM…幅広い分野で活動を展開している。

 

◆小学校時代から番長「弱い者いじめは許さない」

-蝶野さんはアメリカ生まれだったんですね-

「生まれたのはシアトルですけど、2歳半で日本に帰って来ているので、もう全く記憶がないです」

-帰国されてからは渋谷で-

「そうです。それで小学校4年生まで渋谷で、5年のときに三鷹に引っ越しました」

-かなり雰囲気が違ったみたいですね-

「渋谷で住んでいたのは鉢山町というところだったんですけど、丸の内の会社や上場会社の社宅が多くて、とにかく勉強に熱心なところだったんですよ。

それが、三鷹に引っ越したら、お父さんが自営業経営者で建築関係、運送関係というこどもたちが多かった。会社員のこどもたちと自営業の家庭のこどもたちは全然違いましたね。

当時、三多摩は住宅街がどんどん増えて、それに関する建築関係とか土木関係の方々たちが三鷹、調布あたりに基盤を置いて、さらに奥のところの仕事をどんどん取りに行くという感じの人たちが多かったので、渋谷なんかとは全く環境が違いましたね」

-そのころはもうからだは大きかったんですか-

「ちっちゃい頃から大きい方でしたね」

-かなり目立ったでしょうね―

「そうですね。三鷹では都心から越してくる俺みたいなパターンの子が何人かいるわけですよ。それで標的にされる。たとえば、新宿から引っ越してきたやつがいるとすれば、『都会っ子ってどんなやつなんだ?』って。

俺の場合は、『渋谷から転校してきた蝶野ってどんなやつなんだ?』って、もうすぐに他のクラスの番長みたいなやつが来て、『お前どんなんだよ?』って、何か慣れ慣れしく来るんですよ。それで、いきなり『腕相撲やろうぜ』ってなって、俺が勝ったら、『お前強いなあ』って(笑)。新参者をチェックするというか、環境によって違いましたよね」

-それで強い者が認められるという感じなんでしょうか―

「そうだったと思います。強さがすべてという感じでした」

-蝶野さんは番長になったきっかけは?-

「三鷹あたりだと、もう5年生ぐらいから近くに遠足とかに行くじゃないですか。そうしたら、小学生がどこかでケンカになるんです。そんなときには俺がそこに助っ人でバーッと行って、ケンカをしておさめたりして。

あと、弱い者いじめをするやつなんかがいたんですよ。小学校5年生ぐらいなのに、金の貸し借りで金利をつけて、1000円借りたのが10万円になったりとか、わけわからないことをやってるんですよ。

俺らのときにはそういうことをしているやつがいて、そいつを呼び出して『やめろ』って注意していたから、遠足先でトラブルがあったら、俺のところに声がかかってくるんですよ。それですぐに現場に行って、そこでまたケンカとかになると、またちょっと株が上がるというかね…(笑)」

-小学生の頃からいじめられている子を守ってあげたり、親分肌だったんですね―

「それはしてました。小さいころから親に『困っている人がいたら助けてあげなさい』ということは言われてましたから。おふくろが医者の家系だったんですけど、田舎の町医者でお金がなくて困っている人を積極的に診てあげるようなおじいちゃんだったので」

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◆中学、高校もケンカ三昧の日々

-小学校で番長ということは、中学校でも当然番長ですよね-

「そうですね。ちょうど自分らの時代は不良みたいなのが、多分ファッションなんですよね。で、髪を真っ茶色にしてたりとか、ズボンをボンタンにしたり…。

小学校のときにひとつ年上の憧れの先輩がいたんです。サッカーも野球も上手な先輩がいて、俺らが6年生のときにその人が中学校に行って、ある朝、登校するときに偶然すれ違ったんですけど、そのカッコ良かった憧れの先輩が、中学1年生なのに、頭が金髪のアフロになっていて、でっかいズボンをはいて中学校に向かっていたんです。

もうビックリして…。で、その中学に行ったら、水泳も球技も陸上もできるような連中が、そっちのほうに引っ張られるんですよ。

中学でも遠足とかに行くと、他校とトラブルになるんですよ。今度は中学生だから、もう少し段階が違って、男と男のテリトリーを守る戦いが始まって、そういう連中がトラブルを起こすと、また呼ばれて出て行って、俺がケンカをするという感じでしたね、いつも」

-学校で番長として一目置かれる存在だったということはご両親もご存じでした?-

「いや、知らないんじゃないですかね。高校に行くと、それまで自転車だったのが今度はバイクになって、暴走族になってというのがあって…。

自分は家でバイクを買ってもらえる状況じゃなかったんですけど、仲間の連中がそっちのほうに動き始めたから、ちょっと見学に行くと、やっぱりまた暴走族のトラブルみたいな、ケンカがあると、俺がまた駆り出されることになって、いつの間にか『バラダン』のMCの抜擢じゃないですけど、暴走族のリーダーに突然選ばれてしまったりして…(笑)特攻服を親にバレないように隠して、夜になると着替えてバイクで走っていました」

-高校時代はバイクとケンカですか。スポーツもやってらしたんですよね-

「サッカー選手になりたかったんですよ。小・中・高とやっていて、高校も本当は近くのサッカーの強豪校に推薦だけもらってたんですけど、筆記テストで落ちてしまって(笑)

それで、都立のすべり止めに入ったんです。そこでかろうじて続けて。まあ、だから西東京の選抜みたいなところには候補で1年生、2年生と選ばれていたんです」

-高校卒業、そしてプロレスとの出会いは?-

「高校を途中で辞めちゃうやつも半分以上いて、彼らも17、8歳くらいで職についていて、悪い仲間たちも卒業してちゃんと就職したり、専門学校だとか、大学だとか、みんなそれぞれの道に進んでいたんですけど、俺だけは卒業できないと思っていました。留年だと思っていたんですよね。

出席日数も足りてないし、停学も本当は2回で退学になるのが、俺は4回停学もらっていて、それを学校の先生がうまく残してくれていたんですよね。で、『サッカーをやればいい、残してやる』みたいな感じで。それで何とか卒業できたんですけど、卒業後1年間は、目標が定まらず、ふらふらしていましたね」

何とか留年することなく、高校を卒業することができた蝶野さんだったが、卒業後の目標が全く見つからない。不良仲間たちはみんな目標に向かって歩み出している。ひとり取り残された思いだったという。

そんなとき、アントニオ猪木さんの試合をテレビで見た蝶野さんは、その迫力に魅了される。次回は新日本プロレス入門、そして奥様との運命の出会い、黒のカリスマ誕生について紹介。(津島令子)

※『オトナの夜のワイドショー!バラいろダンディ』
TOKYO MX 21:00~21:54、月曜日~木曜日 MC:蝶野正洋

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