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恋多き女・あべ静江、「責任を感じた」。交際相手の全裸写真が写真誌に出た大騒動

デビュー当時から正統派の美人歌手として注目を集めていたあべさん。“恋多き女”として数々のうわさもささやかれた。また、彼女のアルバムに参加していたギタリストの男性とふたりで交際会見をした直後に、婚約者という女性が次々と3人も現れ、あげくに女性が持ち込んだ男性の全裸写真が写真誌に掲載されるという大騒動に発展したこともあった。つらい状態のなかであべさんが行った涙の破局会見は今でも強く印象に残っている。

◆交際会見、そして数日後…涙の破局会見

-歌手デビューされたときは、2年間だけという約束だったそうですが-
「あのときはお付き合いしていた男性もいましたからね。でも、別れのときがわりと早くに来ました。だって忙しすぎてさびしいと思うことすらできない私と学生だった彼とでは、絶対に交際を続けることは無理でしたから…。変な距離感ができて、これは嫌いになっちゃうだろうなって思ったの。だから別れることにしたんです」

-彼もそれは感じていたのでしょうか-
「いや、ビックリしていたと思う。だけどあまりそれを聞いてあげられるゆとりが、本当になくて。しょうがないわね、こればかりは。でも、今は仲良しなので。何年もたってから会うようになったんですけどね。もうすっかり良いお父さんになって。それからはずっと仲良しですよ」

-あべさんと言えば「恋多き女」と言われていますが-
「そうでもないよなあって(笑)。たまたま近くにいるからうわさになっちゃった人が多いしね。財津和夫さんだって書かれたし、ついでに言われている人や、付き合ってもいない男性が勝手に言っていることもあったわね。あとはもう番組で一緒だったからっていうだけでうわさになったりとか…。当時はテレビの『ラブラブショー』などで結婚に発展した方々もいらっしゃるので、何かあたかもそのように書かれるんだけど、『相手の電話番号も知らないわ』って(笑)」

-交際が発覚すると毎回きちんと会見もされていましたね-
「2回だけですけどね(笑)」

-ギタリストの方は全裸写真まで出て大変な騒動になりました-
「ものすごくショックでボロボロになりましたけど、彼は更に精神的に相当ダメージを受けて、ギターも弾けない状態になってしまって…。あんな写真が世間に出たら、誰だってショックを受けるでしょう? すごくつらかったと思う。だから、彼が立ち直るまでは見守らなくちゃいけないという思いがあったのね。それで数ヵ月経って、彼がまたギタリストとして活動を再開した後に、別れたの」

-優しいですね-
「すごく責任も感じていたのね。私と付き合っていなければ、ああいう写真が世間にさらされることはなかったんだと思うとね」

-それから2年後、歯科医師の方とも交際が発覚しました-
「あれは完全にマスコミの先走りでしたよ。まだ付き合っていない段階で書かれちゃったの」

-そのときも、また別の交際女性が現れて-
「私も不本意でしたけど、彼のお見合い相手という女性が…ね。彼にも気の毒なことをしたと思いますよ。今でも良いお友だちですけどね。深いお付き合いをしてなかったから、わだかまりがないんだと思いますよ」

-色々な男性に口説かれて大変だったのでは?-
「それもね、本当に鈍感なのよ(笑)。別に電話番号なんかは教えても、どうせ家にいないから、どうぞみたいな感じで。今みたいに携帯電話とかじゃないから」

-酒豪としても知られていますが、飲ませて口説こうとしても難しい-
「そういうのはいっぱいありました。それはありましたね。冷たく置いて帰っちゃいました(笑)」

-みんな酔いつぶれちゃって?-
「そう。男性って単純なのよね。私に飲ませようと思って、自分が頑張ってすごいピッチで飲んでるのね(笑)。バカみたいよね(笑)。若い頃は日本酒なら一升半は平気だったの。だから男性のほうが酔って潰れちゃうからお店においてサッサと帰っちゃった」

-そういう人と次に仕事場で顔を合わせたときに何か言われたりは?-
「言えないでしょう? 男はそれ(笑)。恥ずかしくてね」

-「しーちゃん、また飲みに行こう」なんて根性のある人は?-
「意外にいないわね。あとエンゲル係数が高すぎて敬遠されるかも(笑)。結構食べるし、お酒もかなり飲みますからね(笑)」

-これまでの恋を振り返っていかがですか-
「恋は下手かもしれない。あまり上手じゃなさそうね、私。基本的に甘えることができないのよ」

-今、恋はしてますか?-
「してませんね。あるとき、マネジャーから電話がかかって来て、『今何してるの?』って言うから『買ってきたDVDプレーヤーとテレビの配線中。すごく楽しいの』って言ったら『何て不幸な人なんだ。そういうときにこそ、男性に、ちょっと手を貸してくれない?って言えば、それが恋の始まりになるかもしれないのに、それが楽しいとは…』って言われちゃった(笑)。怖がりでもないし、恋愛下手の条件がそろっているの」

◆短大在学中に人気DJ、そして歌手デビュー!

-短大時代はいかがでした?-
「本当はインテリアデザイナーに憧れていたのね。でも高校のときに先生に話したら『足場の悪い現場に出ることもあるけど、高いところは大丈夫か?』って言われたの。それで『無理かも』と思ってやめたんだけど、考えてみたらインテリアデザイナーはそんなに高いところに上ったりしないのよね(笑)。でも、その言葉におびえてしまって…。

それで、子どもの頃にちょっと仕事はしていたけど、ちゃんと勉強したわけではなかったから、お芝居の勉強をしてみようと思って、短大のほかに名古屋にある『テレビタレントセンター(TTC)』に通い始めたの。だけど、その学校は残念ながらお芝居の学校ではなくて、おしゃべりの学校だったの、入ってみたらね。でも、授業がすごく面白かったので、通ってみようと1年間。だからすごく忙しい学生生活でした」

-学校に2つ通っているわけですものね-
「そう。2年生になったときには、もう仕事を持っていましたから。在学中に2つ決まったんですよ。TTCはNHKをはじめ、各局の現場のプロデュ-サ-だったり、ディレクタ-、あとチ-フアナウンサ-が指導に来ていたの。だからもう本当に仕事現場と直結していたの」

-最初にオファーされたときはいかがでしたか-
「難しそうだなって思いました。お芝居はセリフが決まっているけど、DJというのは自分の言葉でしゃべっていかなくてはいけないので難しそうだなあと思っていたんだけど、若かったので、やってみてダメだったら、私がクビになるだけなんだから、まあいいかなと思って、スタートしてみたの」

-そしたらすごい人気が出て-
「おかげさまでそう言っていただけて。ひとつはスタジオでしゃべっている帯の番組だったんですけど、もうひとつはサテライトスタジオだったんですよ。ものすごい人が集まっていて、ゲストも豊かでしたよ。当時のフォークのメンバー、ほとんどそこが登竜門みたいになっていて、すごく楽しかった」

-短大もあるし、すごく忙しかったでしょう?-
「そう。だからだんだん学校に行くよりは図書館とかレコード室にこもることが多くなってきて…。またそれが当時の変なファッション感覚? 当時のはやりみたいなね。『ここで短大を辞めよう』という気持ちが生まれたの。叔母にすごく反対されたんですけど、『あともうちょっとで卒業できるのに、何であんたは続けられへんの?』って言うから、『今、辞めたいんだよね』って言って(笑)。

でも、その叔母が言った言葉というのが、いまだに残っていて、誰かにちゃんと伝えてあげたいなっていう言葉を言ってくれたんですよね。『私はね、学校に行きたくても家庭の事情で行けなかった。これ以上は学校に行かせてもらえないという時期があった。学校というものが何かというと、そこで思い出ができるでしょう? 思い出が作れるということは、すごく大事なことだよ』って言われて、かなり心が引っ張られたんだけど、でも、辞めるという気持ちのほうが打ち勝っちゃいましたね。フォークの人たちがテレビに出ないのをファッションにしていたのと同じような感覚。『ここで辞めるんだ』みたいな、すごく軽い考え方なんだけど」

-ご両親は何もおっしゃらなかったんですか-
「何も言わなかったですね。自分の選択したことなんだからって。自分で選択するということがおのずと自分で責任を取らなきゃいけないことだというのが、祖父からの教えで、右に行こうか左に行こうかで迷っているときに相談すると、すごく叱られたの。それで右に行くって決めてから相談すると、色々とアドバイスはくれるんだけど、それを自分自身で決める前に相談することは絶対にダメだったのね。だから、そういうクセがすでについていたのかもしれない」

-短大をやめたときにはまだ歌手にというお話はなかったんですか-
「なかったです。自分のなかでおしゃべりでずっとやっていくんだと思っていて。おしゃべりだけじゃなくて、そこの事務所のお仕事としてはCMのナレーションやモデルの仕事もあったので、歌手デビューしたあとよりも収入が全然多かったかもしれない」

-歌手にというお話になったのは?-
「それは、私が歌うことができるということを知っているオジサマたちがたくさんいたのね。父のバンドの仲間が東海ラジオとテレビにたくさんいて、それで『しーちゃん、歌えるでしょう?』って。私は家では歌わないことにしていたのね。わが家には音楽の先生がいっぱいいたのでうるさくて、絶対に歌いたくないって思っていたの。

だけど、たまたま番組のなかでかくし芸的に歌ってみようねってプロデューサーから言われて、そのときにオリジナル曲を作ってもらったの。『欲求不満フォークソングボーイズ』というフォークグループのリーダーの奥山敬造(景三)さんが作ってくれた曲を歌ったの。生バンドの演奏にのせて歌って、それを自分のサテライトの生のステージから放送されたんだけど、それが色んなところに流れていったんでしょうね、その音源がね」

-歌手デビューの話がきたときにはどうでした?-
「絶対にイヤだと思った。おしゃべりをもうちょっとやってみたかったというのが、一番大きいかもしれないのと、新人歌手の人たちが来たときに私が紹介する側だったのに、それが紹介される側になる、逆になるという恐怖というか…。絶対イヤだと思っていた」

-それがやってもいいという気になったのは?-
「2年でいいからと言われて。うちの父の大親友に、『一緒にやると思っていたからさ、そう返事しちゃったんだよね。もうやるということで話が進んじゃってるんだよ』って、頭を下げられてしまう状況だったの。一番遊んでくれたバンドメンバーのおじちゃんだったので、『じゃあ、やるかな』と思って」

◆寝るのも食事をするのも車…体重35kgに!?

-『コーヒーショップで』を渡されたときは?-
「私は番組で作ってもらったオリジナル曲『さよならを風にのせて』でデビューすると思っていたので、『あれっ?』っていう感じ。東海ラジオでその曲を歌ったことがデビューのきっかけになったわけですからね。でも、結局押し切られちゃって…」

-そしてデビューしてあっという間に売れましたが、あのときはご自身ではどうだったんですか-
「あまり考えている時間が本当になかったかもしれない」

-あの頃は今と違って、すさまじいスケジュールでしたよね?-
「そうなんですよ。移動時間が休む時間だったり、食事の時間だったから。すごく気持ちの良さそうなお布団が敷かれていたのに、そこでシャワーだけ浴びて出て行かなくちゃいけなかったとき、ものすごく後ろ髪をひかれたの。今でも絵に描けるほど覚えている(笑)。『ああ、横になりたい』と思った…。唯一寝られたのが車のなか。鏡もコンセントもカーテンも付いていたし、まるで車のなかに住んでいるみたいな感じでしたね(笑)」

-そういう生活はどのくらい続いたんですか-
「2、3年じゃないかな。たまたまドラマのほうに行ったり、舞台に行ったりしていたので、少し緩和されていったという感じ。歌だけだったら、ずっと続いていたかもしれないですね」

-倒れたり、体調を崩したりということは?-
「ありました。記憶にないぐらいいっぱいありました。みるみる痩せていきましたからね。48kgでデビューしたのに、あっという間に43㎏、41㎏になって、40㎏割って、自分でこれは危険だなと思ったのが35㎏」

-バランス感覚がおかしくなったりしませんでした?-
「なりました。床はもうずっとチラチラして見えるしね。だからステージの前のほうまでは怖くて行けないの。自分でフワッと落ちそうな気がして、ちょっと後ろにしかいられなかった」

-辞めたいと思うことはありました?-
「そういうことを考える時間がなかったの。この現状をどうしようとか、これはなんだろうとか、考える時間もなくて、考える時間があったら寝ていたと思う(笑)。

デビューして最初に言われことは『しゃべるな』ということだったのね。私はおしゃべりの仕事をしていたのに、しゃべるなって言われて、もうどうしようって思ったの。不本意だったし、どうしたら良いんだろうと思ったんだけど、あまりに疲れているので、しゃべらないことの楽さを今度は覚えちゃったの。しゃべらないで良いということは、別に考えなくても良いわけじゃない? だったら楽かもって…。だから私、静かな人だと思われていたんだと思う。しばらくの間は(笑)」

デビュー曲『コーヒーショップで』で一躍スター歌手となったあべ静江さん。続く第2弾『みずいろの手紙』も大ヒットとなったが、そのレコーディングの裏では驚くべきバトルが繰り広げられていた。次回後編では『みずいろの手紙』の裏話、意外な私生活も紹介。(津島令子)

※「あべ静江 松阪大好きコンサート2018」
5月13日(日) 15時開演 クラギ文化ホール 全席自由500円
お問い合わせ クラギ文化ホール TEL.0598(23)2111
メンズ&レディスショップミヤトウ TEL.0598(21)1578

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