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箱根駅伝、山上りで感じた神様の導き。そして自分の名前への発見【連載:“山の神”神野大地】

青山学院大学時代、箱根駅伝の「三代目・山の神」として日本中の視線を集めた神野大地(かみの・だいち、24歳)。大学卒業後はコニカミノルタに所属し、2017年12月には福岡国際マラソンで“初マラソン”を走るなど、実業団2年目から本格的にマラソンに挑戦し始めています。

そんな神野選手が、世間のみなさんに「マラソン」や「駅伝」により興味・親しみを持ってもらうべく、さまざまな角度から発信していく連載。

第2弾では、1月1日に出場したニューイヤー駅伝の振り返りや、母校・青山学院の箱根4連覇への感想、そして自身の名前にちなんだ思い出など、熱い内容が展開されています。

 

◆ニューイヤー駅伝、最後のデッドヒート

©テレビ朝日/撮影:長谷英史

コニカミノルタ所属の神野大地です! 2018年、明けましておめでとうございます。

僕のお正月は、1月1日のニューイヤー駅伝に始まり、2・3日の箱根駅伝を経てあっという間に過ぎていきました。

ニューイヤー駅伝、ご覧になっていただけましたか? 僕はアンカーの7区を走りましたが、襷をもらったときは9位。入賞圏内の8位までは24秒の差でした。正直、自分が思い描いていた展開ではありませんでしたが、アンカーとしてひとつでも順位を押し上げるために前を追いました。

24秒の差は6kmでなくなりましたが、追い付いたときには6位集団を4人で走ることに。僕はラストスパートに自信がなかったので何度か引き離そうと仕掛けましたが、強い風に跳ね返され離しきれず、“これはラスト勝負になるな!”と思い、仕掛けながらもラストのために足は残しておきました。

観ていただいた人は思い出せると思いますが、追い付いてからは集団が牽制してかなりのスローペースになりました。そのため、集団が6人に!

よって、6位もあるが12位もあり得るという状態になったので、心の中はヒヤヒヤ…。でも、集団の中で常に余裕は持っていたし、最後のスパートも力のある限り全力でスパートし、なんとか7位でゴール。アンカーとしての仕事を果たせ、正直ホッとしました。

大学時代、全日本大学駅伝でアンカーを2回走ったことがありますが、良い思い出がないので、アンカーの仕事を果たせた喜びを初めて感じられた1月1日となりました。ただ、チームとして7位という結果は満足できるものではないと感じています。

 

◆青山学院、箱根4連覇「強い!強すぎる!」

また、1月2日・3日の箱根駅伝では、母校の青山学院大学が4連覇を果たしました。

僕は解説という立場で観戦していましたが、感想としては、「強い!強すぎる!」。この言葉につきると思います。

逆転した小野田勇次や区間新記録を出した林奎介など、僕が在学していたときには“こいつら大丈夫かよ?”と思っていた現3年生世代(僕が大学4年生のときの1年生)が大活躍していましたね。青学チームの育成力、そしてチームとしての組織力の強さを改めて感じました。

みんな本当に楽しそうだったし、自分ももう一度箱根を走りたいとも思ったし、後輩たちが羨ましかった…。4年生の田村和希や下田裕太は、慰労会で金メダルを4個ぶら下げていたんです! ただただ羨ましかったですね。

青学は、箱根を勝つために“この時期に何をどのくらいのペースでやれば箱根優勝できるか?”というデータが確立している。ただ強い選手がいたから勝った!で終わらせていないところが、今回の優勝に繋がったのでしょう。

そして、往路山上りの5区については、“山の神”といえるほどの走りをした選手はいなかったと思います。

僕が“山の神”と言ってもらえるようになったのは2015年の箱根駅伝ですが、自分自身であのときを振り返っても本当に神がかっていたと思いますし、色んな条件が重なって1時間16分15秒というタイムが出ました。

偉そうな言い方になってしまいますが、「“山の神”はそう簡単には出ない」ということを言わせてください!(笑)

 

◆神様に助けてもらった4つの出来事

僕は“神野大地”という名前で、よく「すごい名前だね」「陸上選手になるために付けられたような名前だね」ということを言われます。

でも、“大地”という名前は「大地を駆ける」などの意味合いで付けられたのではなく、88年ソウルオリンピックの水泳の金メダリスト・鈴木大地さんにちなんで付けられたものなので、小さい頃はとくに陸上選手になりたいとは思わず、野球を熱心にやっていました。

ただ、いつからか自分の野球の才能に限界を感じます。そしてその反面、努力すれば絶対に強くなれる陸上というものの性質に魅力を感じるようになり、中学2年生のときに野球を諦め陸上一本で取り組むようになりました。

でも、だからといって陸上で強かったわけではなく、あくまで自分の中でタイム更新などを考えているレベルで、全国で戦えるような選手ではありませんでした。

では、なぜずっと陸上を続けられて、大学時代に駅伝で注目してもらえて、いまマラソンも走れているのか。そこに至るまでには、僕の名前の中に入っている“神”様に助けてもらったとしか思えないような出来事が4回ありました。

一度目は、中学時代たいしたタイムを持っていなかった僕が、たまたま先輩の縁もあって陸上の強い愛知の中京大中京高校に入学できたこと。二度目は、高校2年生のインターハイ予選の県大会(5000m)のときに自己ベストを約40秒更新して県4位に入れたこと。

いま思えば、このとき県4位になれたことが僕の環境を、そして人生を変えました。結果を出せたことで、より陸上が強い人たちとのコミュニケーションが生まれ、それがさらに自分を成長させたんです。

三度目は、同じ高校2年生のときの夏合宿で、青山学院大学の原晋監督と出会えたこと。

たまたま自分の高校と青学が同じところで合宿をしていて、長野県・菅平のクロスカントリーコースというところを何百人が走っているなか、原監督は僕だけに目が止まったそうです。そのとき監督は、当然僕の名前もタイムも知らなかったのですが、夜に宿舎で話しかけてきてくれました。そして、「君が高校を卒業したら一緒にやりたい」と言っていただけたんです。

その後5000mで14分33秒というタイムを出し、他の大学からも声をかけてもらえましたが、僕は迷うことなく、タイムもわからない状態でありながら何かを感じて誘ってくれた原監督の青山学院大学に進みました。

あのとき、もし違うところで合宿していて原監督と出会うことがなかったら…。そう考えると、やはり神様に助けてもらった、神様に導いてもらったとしか思えません。

◆2015年、箱根駅伝5区の山上り

そして四度目は、2015年・第91回箱根駅伝の5区です。

このときはすごく調子が良くて、練習もかなりできていたので、自分自身“いける!”とは思っていました。ただ、神様の導きを感じたのは、「46秒差」という襷をもらったときの差でした。

前半、かなり早いペースで走って、上りに入ってから“うわ、きついな”と思っていましたが、前に1位の選手がいるのが見えていたんです。これがもし見えなかったら、きついのは自分だけか…と思い自信がなくなっていたかもしれません。

でも、見える位置にいられたのも、追いついてからすぐ抜かずに少し休むことができたのも、襷をもらったときに46秒差だったからこそ。少し休んで回復できたことで、そこから一気に走り抜くことができました。結果、“山の神”と言ってもらえるようになったというわけです。

そして、箱根が終わってからTwitterでエゴサーチをしていたら(エゴサーチ、結構します!)、こんなツイートをいくつか発見しました。

「“山の神”で神野大地って、こいつ名前もすげぇな」

僕はこのとき初めて、自分の名前ってすごいのかもしれないと思いました。そして今でも、「山の神・神野大地」と言ってもらえることに大きな喜びを感じています。

と、長々と“山の神”への愛情とこだわりを綴ってしまいましたが、これからは“マラソンの神”と言ってもらえるように精進していきたいと思っています。2018年はまず、2月に行われる東京マラソン。みなさん、ぜひ応援してください!<神野大地>

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