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厨房に立ち、フルコース料理を作るアーティスト 永田康祐がビデオエッセイで探る、自分と”他”の境界とは

そもそも「料理」は、どこからどこまでが「料理」なのか??

新感覚アート番組アルスくんとテクネちゃん、第17回の放送に登場したのは、そんな着眼点から自分と他者のあいまいな境界を探るアーティスト、永田康祐さん。

永田さんは、素材が調理されて人の口に入るまでには長いプロセスがあり、そこにはたくさんの人やネットワークが介在していることに着目。文化や歴史を読み解きながら、料理の神髄にせまるビデオエッセイ作品を発表している。

永田さんみずからが厨房に立ち、とり肉やキノコ、ニンジン、アスパラ、タコなど多種多様な食材を使ってフルコース料理を作るなか、あぶりだされていく人間の身体の強さと弱さとは?

◆どこからどこまでが「料理」なのか

―永田さんの作品は料理がモチーフとなっていますが、これは実際に永田さんが作っていらっしゃるんですよね?

そうです。

―料理はいつから?

上京してから、週に2〜3日は自炊でした。料理が趣味だと実感したのは大学院を修了して働き出してからです。食べることが好きで、YouTubeを観たり本を読んだりして独学で調理方法を覚えていきました。

―性に合ったんですね。

いまは制作のためのルーティーンとしても重要な気がしています。

普段の制作は映像や写真を主に用いていて、僕自身絵画や彫刻のバックグラウンドがあるわけでもないので、作業はだいたいデスクで完結していて、絵を描いたり粘土をこねたりといったことはしていないんです。つまり、展覧会のときだけ展示に必要な素材と向き合っている。

そうすると、どんどん素材から自分の身体が離れていくような気がするんです。日々の生活のなかで実際に手を動かして何かを作る体験ができるのは料理くらいだから、僕にとって、普段の制作と作品を展示することのあいだのある種の緩衝材でもあります。

―なるほど。この『Purée』(ピュレ)という作品名は、フランス料理の“ピュレ”のことですか?

《Purée》からのスティル画像

はい。料理名でもあるし、食材をミキサーやすり鉢ですり潰す調理法のことでもあります。そのピュレを起点にして作ったのが、この34分くらいの映像作品です。実際に料理を作ったり食べたりしている映像に、僕自身が朗読する形でナレーションを付けています。一般にビデオエッセイと言われる形式の作品ですね。

―これはどういったことを表現されているんでしょう。

《Purée》について説明するには、2019年に制作した《Translation Zone》についてお話しする必要があります。それは、日本や中国といった特定の文化圏に属する料理がある一方で、でも中国料理が日本料理に影響を与えていたり、その逆もある。ある文化と別の文化とを分割する境界とはなんだろう、と考えた作品だったんですね。

―国が違えど似ている料理ってありますもんね。

どこからが日本料理でどこからが中国料理なのか。中国料理のなかにもたくさんの区分があるし、そういった境界ははたして確定できるようなものなのか。それを踏まえて、「料理はどこからどこまでが料理なんだろう?」「どこからが食べる行為なんだろう?」という、“料理”の境界について考えた作品が《Purée》なんです。

―“料理”の境界?

「料理はどこからどこまでが料理なんだろう?」でいうと、たとえば、カツオ節で出汁を取ってお味噌汁を作るのは料理だと思えますけど、カップ麺にかやくとかスープの素を入れてお湯を注ぐのは直感的には料理じゃない気がしませんか?

―たしかに、そうですね。

その境目ってどこなんだろうと。カップ麺は調理済みのインスタント食品だからそれを準備するのは料理じゃない感じがするのだと思いますが、実際にはカツオ節だって、複雑な調理工程によって作られたものですよね。

釣ったカツオの内蔵を抜いて、塩茹でにして、燻製にかけながら乾燥させて、カビを付けて、乾燥させて、カビを削って、もう一回カビ付けして、そのカビを削ってまた乾燥させて……。その行程には煮たり燻製にしたりっていう調理が含まれているじゃないですか。

―わかります。というか詳しすぎませんか……?(笑)

本格的な日本料理店ですらカツオ節は買ってくるのが当たり前で、カンナで削るところから料理が始まります。それ以前の行程は“製造”とか“加工”という言葉で呼ばれていて、料理とは切り離されている。一体料理はどこからはじまっているんだろうと。

―その観点はおもしろいですね。

そこから派生して、次は「どこからが食べる行為なんだろう?」という疑問が湧いてきました。

たとえばホテルのビュッフェにあるローストビーフは、まず料理人が仕込みの段階で肉を切りわけますよね。それから加熱調理が行われる。さらにフロアにいる給仕人の方が一切れに切る。僕はそれをお皿に受け取って、自分の席でナイフとフォークを使って切る。それぞれ“切る”という行為は変わらないけど、じゃあどこまでが料理なんだろう、と。

《Purée》からのスティル画像

―たしかに!

こうした過程は、普段別々の工程とみなされるけど、実際には連続的なものなんじゃないか。つまり料理という行為は、“食材と呼ばれているもの、またときに、はじめの段階では食材とすら呼ばれていないものが、自分の口に入ってくるまでのプロセス”だと捉えられるんじゃないかなと思ったんです。

―料理という解釈を広げていくというか。

口に入れられることが予期されなかったものが、口に入れられるものに変わっていく、このプロセスに興味をもったんです。

ローストビーフでは料理人だけではなく給仕人や食事をする人もナイフを用いるけど、すき焼きであれば、肉は料理人によってあらかじめ薄くスライスされている。それを仲居さんが焼いてくれたものに、溶き卵を付けて、箸で口へと運ぶ。食材が僕たちの口に入る過程には、さまざまな人や道具のネットワークがあります。そしてそのネットワークは料理によって異なるわけです。

◆周囲との関わりが身体を変えてしまうことも

―その視点は斬新ですね。つまり、いちばん最初の素材の状態からいろんな人が関わっていて、関わっていないと口には入らないということですよね。

そうですね。さらにいえば、その関わりによって、人間の身体が物理的に変化してしまうこともあります。

―身体が変化を?

たとえば17世紀以前のフランスでは手食が一般的で、人々は肉を噛みちぎって食べていたんですが、イタリアからフォークとナイフが入ってくると、テーブル上で肉を切り、小さくして食べるようになりました。

それによってかみ合わせが変わったという研究があるんです。食材を噛みちぎるために上の前歯と下の前歯が爪切りのように衝突する切端咬合というかみ合わせから、上の歯が下の歯に覆いかぶさる被蓋咬合に変化したと。食物を噛み切る機能が、人間の身体から道具へと外部化されているんです。食材が口に入るまでの経路が変わることで、人間の身体さえも変化しうる。

―たしかに、今前歯で噛みちぎることってあまりないですね。

《Purée》からのスティル画像

同じことが中国では別の仕方で起きています。ヨーロッパの料理では肉が塊でごろっと出てきますが、中国は箸文化ですから、つまみやすいように食材を全部同じサイズで切り刻みます。青椒肉絲を想像するとわかりやすいですね。

箸は宋代に広く一般化しますから、中国の人たちのかみ合わせは、ヨーロッパの人たちに比べると相当早い時代から被蓋咬合に変わっていたという説があるんです。時代も国も異なるけれど、別の経路によって同じ変化がもたらされているわけです。

―いろんなものとの関わりによって、人間は変化するんだということですね。

食べる行為に応じて、都度いろいろな道具や人間によって、食べる主体が組織される。行為するたびに身体は変化しうるんです。青椒肉絲を食べるためには、食材を刻む料理人と間接的に関係せざるを得ないし、箸という器具を使わなければいけない。そういった関係が、不可避的に自分の身体を変えていく。確固たるものに見えた自分という存在は、実はいろんなものと結びついてどんどん変化している。僕はそういう、“変わりうる身体”について考えたいと思っています。

―すごくよくわかります。

ですから作品を観た人には、自分はこういう人間なんだ、こうでしかないんだ、と決めつけるのではなく、別のものに変わり得るし、むしろ気づかないところで変わってしまってさえいる。そういうことを考えてもらえたらと思っています。

―自分の意志が及ばないところに、関係性が張り巡らされているわけですね。

現代の人間って、スマホのような電子機器や乗り物などの便利なシステムと結びついたサイボーグみたいな強い主体に見えるけど、裏を返せばいろんな器具によるケアを必要とする弱い主体だともいえる。

いかに自分が周りのものに増強されて自己を保てているか。自己というものがいかにフラジャイルな存在で、周囲のものとの関係によって成り立っているのか、ということがわかるといいのかなあと。

―そうした関係性を表すのに、ピュレという料理を用いたのにはどんな意味があるんですか?

ピュレは中世フランスで発展するのですが、17世紀のとくに女性の貴族のあいだで流行するんですね。野蛮に音をたてて食事をするのではなく、静かに上品に食事ができるという理由からです。また、当時の器具でピュレを作るのは大変で、ピュレを食べることは、それだけの料理人を雇うことができるという権力の誇示の意味もありました。

いっぽう現代ではピュレは離乳食とか老人食のようなケアのための料理にもなっている。いってみれば食材をあらかじめ噛み砕くというピュレの調理が、権力の誇示として行われる場合もあれば、ケアのために行われる場合もある。その二面性がおもしろいなと思ったんです。

◆なるべく専門化したくない

―永田さんの作品にはそうした学術的な側面もありますし、表現方法としては映像という手段を使っていらっしゃいます。肩書きとしては、なんと呼ぶのが正しいのでしょう。

だいたい「アーティストです」って名乗るんですけど、いつもちょっと気恥ずかしいんです(笑)。はじめからアーティストをやろうとおもって制作をはじめたわけではなくて、以前は大学で工学系の研究員をしていたんですけど、担当した授業の成果展とかやっているうちに気がついたらこうなってた、みたいな感じなんですよね。

かつては研究者志望で、学術研究に対するリスペクトは今もあるんですが、専門の枠や学術的な厳密さではないところで、自由に考えてみたいと思っていたんです。

―研究者からアーティストへ、というのは珍しい選択な気がします。

なるべく専門化したくないみたいな感覚があったんですよね。日常的な言葉を使って考えられるようになりたいなと思って。実家に帰って親に説明できないのはちょっとなあ、みたいな。まあ今も全然説明できないんですけど(笑)。自分がどんどん専門化してひとつのことしかできなくなっていくことにも違和感があったし、自分の関心は日常的なところからはじまっているはずなのに、そのことについて同じ専門の人以外にうまく話せなくなっていることにもストレスがありました。

―そこから料理に出会って、今の作風に繋がっていくと思うと、何が起こるかわからないですね。今後はどういった作品を作りたいと考えていらっしゃいますか?

しばらくは料理について考えたいと思っていますが、料理じゃないジャンルでも、おもしろいと感じたらやってみたい気持ちはあります。その手法として、引き続きビデオエッセイという形を取っていきたいなと。

―あくまで“エッセイ”なんですね。

そうですね。サイエンスライターっていう職業があるじゃないですか。彼らは、物理学や生物学、考古学などの専門的な研究成果を、非専門家にも理解できるような文章で僕たちに届けてくれる。

もちろん細部まで理解するのは難しいけど、その発見がもたらす知的な興奮は部分的に共有できるし、それによって世界の見え方が変わってしまったりするわけですよね。それってとてもステキだなと思うんです。僕もそんな仕事がしたいなって。

―さきほどの「専門化したくない」「日常的な言葉を使って考えられるようになりたい」というお話に通じますね。

テキストだけではなく、視覚的で直感的な情報をともなう映像によって伝えたい。ビデオエッセイというかたちの表現を、もう少し追求していきたいなと思っています。

<文:飯田ネオ 撮影:大森大祐 撮影協力:ANB Tokyo>

永田康祐
アーティスト

ながた・こうすけ|1990年、愛知県生まれ。東京藝術大学大学院映像研究科博士後期課程在籍。東京藝術大学大学院美術研究科修了。現在、Gallery aMにて個展「イート」を開催中(2021年3月5日まで)。展覧会に「トランスレーションズ展」(2020)、「あいちトリエンナーレ2019」(2019)、「第10回恵比寿映像祭」(2018)、「OPEN SITE 2016-2017『Therapist』」(2016〜2017)など。

※番組情報:『アルスくんとテクネちゃん
毎週木曜日 深夜0時45分~50分、テレビ朝日(関東ローカル)

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